100人のプロの20人目からのエール‼️
三重県でホテルを経営されているKさん。
今回、お客様の利用する場所を一通り案内して下さいました。
インタビューのお願いをすると
「俺なんか」
と言っていましたが、私のしつこいお願いに快く引き受けて下さいました。
お話を伺うために別室へ。
その別室は、夕方になればお客さんたちのお風呂後の休憩スペースになる場所で、昔ながらのポスターがノスタルジックな空気感を出しながら、木彫りのインド像たちが更に演出してくれます。
待っている時に
「ガチャン。ガチャン。」
音がします。
自動販売機で飲み物を買っている音です。
私たちとKさんを含めて3人なのですが、自動販売機から聞こえてくる音はその倍の音でした。
「私たちの飲み物を買って下さっているのかなぁ」
と思ったのですがそれにしては数が多過ぎるので、きっと業務の一環なのかなぁと。
腕に沢山の飲み物を抱えながら私たちの座るソファへ。
「好きなの飲め」
…
かっこいい!
最近あまり聞かないその言葉に、素直に美味しそうなカフェオレを頂きました。
私自身、誰かに何かを奢ると言うことをしていない昨今…
その言葉をとっても新鮮に感じました。
町のためにホテル経営に挑戦した「挑戦するプロ」のKさんのお話です。
◯子どもの頃の夢
ない
70代のKさんはそもそも「夢」と言うこと自体を考えている雰囲気はありませんでした。
Kさんのご実家は飲食店を経営されていて、子どもの頃から色んな人たちが来て相手してもらっていたとか。
多くの働く人たちを小さな頃から見ていた事もあって、「仕事」に対して過度に理想化していなかったのかも知れません。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「人情」
学校に行かずに町のお祭りに行くことも。
お話を聞いていると、なかなかのおうちゃくな子ども時代だったことが伺えます。
クラスの生徒が学校に来ず、どこかへ遊びに行っていたらこれはかなりの問題になり、悲痛な表情を浮かべながら保護者を呼んで、
「今後はこのようなことが無いように」
と畳み掛けるような注意の嵐が予想されるこんにちの学校ですが…
Kさんはお祭りに行く時に変装をしていたものの、電車の真正面に生徒指導の先生が座っていたらしく、
「おい!Kだろ?どこ行くんだ?駅は過ぎたぞ?」
と声をかけられ、引き返して学校へ登校することに。
例のように保護者が呼び出され、Kさんのお父様が迎えに行くことに。
お父様がKさんの待っている部屋に入るや
「先生。こんな子、学校辞めさせたってくれ」
と言いながら、Kさんを引きずり出そうと…
慌てた先生たちが
「お父さん。Kさんも反省してますから。まぁまぁ。落ち着いて下さい」
そんなやり取りのお陰で事なきを得たみたいです。
現代の形式的に厳しくする指導よりも断然!心のこもったやり取りを感じました。
真面目ではなかった学生生活があったもんですから、卒業時の就職活動では学校側の支援はなかったみたいです。
しかし、お実家のお店に町長さんがよく来て下さっていたみたいで、
「よし!そんなんだったら、一度面接をしてやろう」
とご好意を頂いたとか。
良い時代です。
町長さんとは昔からのお付き合いで、夜遅くなるとKさんが町長さんの自転車を家から持ってきて送り届けたりすることもあったみたいで、親戚の叔父さんのような感覚だったそうです。
叔父さんと話に行く感覚で入社をかけた面接の日。
町長が
「Kくん。君は〇〇とか□□はできるかな?」
「うん。できるんとちゃう。」
「じゃあ…△△はできるかなぁ?」
「うん。できるんとちゃう。まぁ…漢字は書けへんけどね(笑)」
「そっか。よくわかりました。」
「ありがとう」
そんな面接だったみたいです。
…
これで内定をもらっていたら町としての大問題だったと思いますが、世の中はそんなに甘くはありません。
町長が許しても、周りの方々が猛反対をして本人に
「あんな態度では、とても採用はできん」
と告げられたそうです。
お父様も覚悟されていたみたいで、お知り合いの関係でKさんを引き受けてくれるところを決めていたそうです。
それは…「自衛隊」です。
私自身、子どもの頃に自衛隊の方々に対して間違った偏見をしていましたが、以前Kさんから「自衛隊」の話を伺って、意識が大きく変わりました。
それこそ、Kさんの隊員時代はまだまだ差別的な見方がされていたそうで、
「日本のために」
と私たちのために命を削って職務を全うして下さっているにもかかわらず、石を投げられることもあったそうです。
これは、教育者である私たちが正しい知識を伝えていかなくてはいけないことだと再認識しました。
Kさんが自衛隊の頃の話をする際は真剣な眼差しで、何気なくした敬礼はとてもカッコよかったです。
手の角度、指の揃い方、完璧です。
隊員として経験を積み最後の任務の時、たまたま運よく防衛大学の学生と一緒に船艦に搭乗し、世界を周ることができたそうです。
世界を周っている時、小笠原諸島の父島が日本に返還されるのを目の当たりにして、「国土」と言うものの思いを肌で感じたそうです。
船艦で海外に寄港した時の自由時間でKさんはお土産を買ったそうです。
しかし、Kさんのお土産は誰よりも大きく、誰よりも重い木彫りのものばかりだったので、艦首さんに激怒されたと笑いながら教えてくれました。
そう、ノスタルジックな演出家たちは50年くらい前に艦首さんに激怒されながらも世界で手に入れたものたちでした。
自衛隊での勤務の後は、東京で「バーテンダースクール」に。
ここでお酒関係の知識を身につけるために行ったのですが、真面目に過ごした自衛隊の頃とは正反対の場で、真逆の生活をしていたとか。
お父様が
「いい加減帰ってきなさい」
という思いで、先にKさんのための喫茶店を建設していたそうです。
渋々帰ることになり、三重県に落ち着いたとか。
20年後、町を活性化させようと当時の町長さんが企業を誘致する計画を立てます。
しかしながら、企業側が
「ホテルもない町に工場は建てられません」
そんな発言があったので、町長はKさんの元へ。
「企業がそう言っているから、Kくん。ホテルをやってくれないか?」
町長は戦争を経験された元軍人さんでした。
「僕が自衛隊で勤務していたと言うこともあって、依頼して来たんじゃないかなぁ」
と依頼された当時を振り返りました。
ホテル建設の条件もとても良く、2年は一般のお客さんが宿泊していなくても全て企業側が借上げしてお金を払うと言うものでした。
企業側の支援があり、「町のためになるようなら」と実行していきます。
しかし…
ホテル建設が進む中、バブル経済が弾けます。
企業側の話も白紙になってしまいます。
金利が倍に膨れ上がりました。
借金の金額が億単位で倍になっていきます。
企業の借上げがあると言う話で組んでいた返済計画でしたが、全くのゼロベース。
返済するのにお金が足りないため、銀行に追加融資をお願いに行きます。
しかし、地元の支店では
「何もできません」
と言われてしまいます。
そのため銀行の本店がある名古屋まで出向きます。
やっとの思いで本店の責任ある立場の方に時間をつくってもらいました。
本店の方は
「もっと大きな構想を練りなさい」
そんなアドバイスをして頂いたそうです。
名古屋から帰ってくる時は、かなりの時間がかかりました。
融資のことばかりを考えるがあまり、降りる駅を間違えたり、駅から車での移動中も家を通り越してしまったり…
お金をどう工面していくか!?
そんな事ばかりを頭で考えていたそうです。
どれほどの重圧だったか…。
高速がいつかここに通って、町はこうなって〜
色々なことを言うようになっていったそうです。
最初は「嘘」を言っている自覚があったそうですが、言いながらイマジネーションという形でどんどん膨らんでいき、理想の町を思い描くようになっていきます。
「嘘」を「嘘」として発することがなくなっていきました。
しかしながら…
これがまた凄い事でして…当時「嘘」として嘲笑われたことも、30年経った今現在はその内容のほとんどが「現実」となっています。
高速が通りインターができ、「町」は「市」になり、企業誘致は成功しています。
真実のみをよしとする現代社会では、少々窮屈な気にもなります。
真実だと思っていたことも、見方を変えれば「真実」ではなくなることも。
Kさんは言います。
「面白い話は嘘ばかり。でも本当になることもある。嘘の中に本当がある。」
そんな思いで話を聞けたら、もう少し、世の中にゆとりが生まれるのかもしれません。
億あった借金は、返済可能な金額にまでになり、
「あの時は〜」
と語れるゆとりが生まれていました。
がむしゃらに頑張ったその背中に、苦難を他人のせいにする言葉は一切ありませんでした。
自分の欲だけでなく、地域のため、住民のためにとホテル経営に挑戦したKさんはまさしく「挑戦のプロ」です。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「やってみたいと思うことは全てやってきた」
バブル崩壊の波をモロに受けたKさん。
追加融資をもらうために、「カラオケ」や「ラーメン屋」や「屋台村」を経営されたとか。
まさしく「やってみたいと思うこと」は全て挑戦したのだと思います。
奥様も一緒になってやってくれていたから、今があるのだと思います。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「いい風に考える。」
自分自身が悩み、もがいてきたからこそ、「あの時に比べれば」と言う気持ちになるそうです。
「何とかなる!」
そう思うことの大切さを教えられました。
◯発達個性を持った子どもたちへのエール
「どうしたらいいか… って言えん」
自信満々に発言されるKさんが、唯一この質問に関しては、なかなか考えが出てきませんでした。
それは、実際に色んな方々と関わりを持って親身に接しているから一言では表現しづらいのだと思います。
地域の社会福祉協議会から、社会復帰のためにホテルで訓練してもらえないだろうかと依頼されたり、民生委員となって学校へ行ったり、困っている方に話しかけに行ったりしていました。
社会復帰のために来ていた子が
「せっかくだから、挨拶くらいはしましょっか」
と従業員の方が、優しくアドバイスしたのですが、次の日から来なくなってしまったそうです。
その事を、Kさんは深く受け止めていらっしゃいました。
単純に「合わなかっただけ」と片付けず、
「どんな声かけが良かったのだろう」と。
一人一人に真剣に向き合うKさんらしい言葉でした。
◯インタビューをして
「さすがに返済は無理だ」
そう考えた時、皆が寝静まった時間に近くの山林へ行っていたそうです。
どの木にしようかなと考えながら歩き、いざ!と思う前にご自身の保険金を計算するそうです。
「ん〜。まだ足りん」
自分が死んでしまっては遺された家族が保険金でまかないきれない金額の借金を負うことになってしまう…
そう考えていると、朝陽が自分を照らします。
「仕込みに行かなくっちゃ」
自然とそう言う発想になり、山を降りていつもと同じ生活に。
保険金が足りていなかった事がKさんを救った一つでもありました。
町のために一肌も二肌も脱いだKさん。
今、Kさんの市では市長が中心となって駅前の開発に取り組んでいるとか。
その駅前に全国チェーンの有名ホテルを建設予定との事。
町を支え、町のためにと身を削った方々がいます。
地元のための開発であって欲しい。
人はお金で動くものではなく「心」だと思います。
お金で動くのは、そこに心がないから。そこに愛がないから。
しかしこれは「きれいごと」かもしれません。
お金で動かない扱いづらく思える地元の有志たちの声を大切にしてもらいたいです。
安く済む
簡単に済む
その代償は「人情」なのかも知れません。
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