100人のプロの69人目のプロ‼️
今から170年前。
神奈川県三浦半島の浦賀に外国船がやってきました。
勇ましく、
ドーン
ドーン
大砲を鳴らし迫ってきます。
大砲の音は日本全土に響き渡るが如く。
日本が大きく変わる合図のような。
これは日本の歴史、「ペリー来航」です。
現代では、大きな船は当たり前の日本。
旅客船の姿も、日本の海で見かけることができます。
大きな船。
建物が海の上で動いているかと錯覚をしてしまうほどの大きな船。
まだ海外に比べ“船で旅をする”という習慣が根付いていないものの、日本には人気を誇る旅客船があります。
一度は乗ってみたいと憧れの旅客船。
飛鳥Ⅱです。
日本最大級の客船。
乗客数は800人以上。
乗組員は約490人。
一つの船に1000人以上が乗ります。
その船の全責任を請け負う「船長のプロ」にお話を伺うことができました。
神戸港に停泊中の一息つけるその時間に、「子どもたちのためなら」とお時間を頂きます。
◯子どもの頃の夢
「船に乗りたい」
神奈川県横浜市出身の船長さん。
横浜港でよく見ていたのは、大きな貨物船でした。
その姿に圧倒され、小学生の頃から抱いていた“船乗り”への思い。
横浜港で良く見るものが別のものであったのなら、違う未来がだったのかもしれません。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「ご縁」
中学、高校へと進学していく中で
“船に乗りたい”
という気持ちは一度も変わりませんでした。
その夢を実現させるべく、船について学べる大学へ進学します。
卒業後は今の会社に就職。
いきなり船長というわけではなく、まずは航海士として経験を積んでいきます。
その後、貨物船の船長に。
貨物船の船長は、物を安全に運ぶことだけが仕事ではありません。
運んでいるものであったり、安全であったりをしっかり把握する必要があります。
また、海外の港でも貨物の上げ下ろしの前に打ち合わせなどあり、様々な国籍の人たちとコミュニケーションを取る必要があります。
必然的に幅広いネットワークを持つようになっていきます。
日本は資源の多くを輸入に頼っています。
だからこそ、貨物船の船長を極めていく方の存在は、日本を支えてくれています。
一つ一つの学びや経験が、子どもの頃から描いていた「貨物船の船長」という夢を実現させていきました。
船長さんは貨物船に憧れ、海の世界へと歩まれた方。
人を運ぶ旅客船は選択肢の中にはありませんでした。
その中での辞令。
「飛鳥Ⅱの船長」という辞令でした。
あの飛鳥Ⅱの船長というのはとても光栄なことです。
しかし船長さんは悩みます。
もちろん飛鳥Ⅱに乗ってみたいという思いはあります。
しかし、責任の重さを想像するとなかなか一歩が踏み切れず。
貨物船には責任がないという意味では決してありません。
「物」から「人」に変わる重さは計り知れないものでした。
旅客船が始まった時代に比べ、技術は進化し安全に航行できるようになっています。
タイタニックのような事故は今の時代起きにくいです。
だからといって安全であるだけでは、乗船する方々の「ひと時」を守るとは限りません。
海から眺める富士山。
海の上から見上げる星空。
同じように移動していくイルカたち。
安全でありながら、非日常のエンターテーメント的な要素は、乗る人たちの心を躍らせ、癒していきます。
だから会社としても“誰でもいい”わけではありません。
思考力や判断力に優れていなければ、旅客船の船長は務まりません。
「貨物船では行かないような魅力的な世界の港に行くことができる」
「貨物船も旅客船も操船する経験を積めて、自分自身の船長としてのキャリアアップにつながる」
飛鳥Ⅱの船長になった時の良さを色々と頭に浮かべ、自らを奮い立たせます。
インタビューの待ち合わせは神戸港。
ご家族で乗って来たんだなと思う方々や、ご友人との時間を過ごされた方々が港につきます。
操舵室を離れ、お客様お一人お一人のお見送りをします。
旅の終わりは口数が減っていくものですが、皆さんが笑顔で話しています。
車で迎えに来ていたおじいさまが、車から降りてご家族との再会を楽しみに待ちます。
電車で帰ろうとする方は、一緒に来ていた人たちと笑顔で語らいます。
タクシー乗り場では、クルーと思われる方々がスムーズにタクシーを手配します。
皆さんが最後まで笑顔で過ごせるよう、その笑顔を守るために。
帰りを待つご家族のために。
安心と感動を、かけがえのないお土産に帰っていきます。
飛鳥Ⅱの船長さんが運んでいるのは「人」だけではありませんでした。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「農家」
船長というお仕事は“5日働いて二日休み”ではありません。
海に出てる時は何日間も、何ヶ月間も海の上です。
例えば、仕事は4ヶ月まとめて働き、2ヶ月まとめて休みというサイクル。
その2ヶ月のお休みでは、お知り合いがされている農業のお手伝いをしているそうです。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「落ち込まないように頑張っている。
事象を多面的に見るように。」
お客様を安全にお連れするという責任。
お客様にとって満足いく海の旅とする責任。
自分ではどうすることもできない自然現象。
飛鳥Ⅱの船長になった時、その大きな責任たちが船長さんを眠れなくさせることもあったそうです。
かけがえのないはずの“今日”という一日を、いつもの一日として過ごす人もいれば、特別で格別に過ごそうとする人もいます。
飛鳥Ⅱに乗船する方々は、
「特別な一日にしたい!」
と何日も前から、何ヶ月も前からその日に想いを込めています。
そんな日を
「天気が悪いからしょうがない」
の言葉で終わらせたくはありません。
“天気が良くないから”という言葉を“天気が良くなくても”という言葉にするために、仲間たちと力を合わせ、精一杯に努めていきます。
常に冷静に、視野広く、客観視できるよう、仲間と言葉を交わします。
様々な経験と仲間たちとのコミュニケーションが、自然と心を強くしてくれていました。
◯未来ある子どもたちへのエール
「“みんなと一緒じゃない”
それは個性が突き抜けているということ。
生かし方は色々あります。
“右向け右”で『左』を向くことが武器になってくることもあると思います。」
少子化が叫ばれる日本。
飛鳥Ⅱの乗組員約490人のうち日本人は3分の1程度。
日本の客船ですが、日本人ばかりではなく、外国人と一緒に働いており、お互いの文化的背景が違うことを認め合い理解しあわずに、日本人の想う当たり前だけ押し付けても船は進まない状態です。
みんなと一緒にコミュニケーションが取れない。
みんなと同様に答えることができない。
みんなと同じようにグループ活動ができない。…
“みんなと違う”
この言葉で虐げられた人たちの時代が始まります。
違いを貫けば個性に。
その個性は生かせばいいんです。
違う分野で、違う国で、違う文化で、その個性は生かせます。
◯インタビューをして
江戸時代後期。
ペリー提督は力を持って日本を開国させるために大砲を鳴らします。
恐れる日本人。
日本人の多くは、世界の終わりと感じていたはずです。
しかし、その船に自ら乗り込んで、自分を連れて行けと言った人物がいました。
吉田松陰です。
見つかれば即刻処刑になる可能性があるにも関わらず。
知らないこと。
分からないこと。
違うこと。
これらを知ろうとし、分かろうとし、取り入れようとしました。
吉田松陰の塾に通う生徒たちが明治という新しい時代を築きます。
恐れていては何も進みません。
逃げていては何も解決しません。
見えようとしなければ事実を知ることすらできません。
恐怖をエネルギーに。
物事は多面的に。
日本の舵取りはあなたたち一人一人にかかっています。
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