100人のプロの74人目のプロ‼️
今日も誰かが、私の幸せを願ってくれています。
まだお話もしたことのない方が。
まだ会ったこともない方が、あなたの幸せを願ってくれています。
気づかないだけ。
知らないだけ。
今ここにいることの奇跡。
一つ一つの奇跡が重なって、今を過ごします。
そんな奇跡と出逢うと、そう語らずにはいられません。
今回のプロは愛知県で唯一の養蚕農家「養蚕のプロ」滝本さんです。
ゴールデンウィーク頃から養蚕のお仕事は最盛期を迎えます。
お蚕を育て繭を生産。
昔…といっても昭和の頃までは、日本全国で養蚕が盛んに行われていました。
しかし、生活の様式の変化と共に、安価な海外産が主流となり、今では養蚕を営む方々は減ってきています。
それでも、全国にはまだ養蚕農家がおり、群馬県には繭から絹糸にする製糸会社があります。一部の地域では、養蚕業を地場産業にするため力を入れているところもあります。
滝本さんの繭は絹糸にして、毎年伊勢神宮に奉献されます。
奉献行事は、明治34年から始まり、渥美半島の田原市にある神宮神御衣御料所で繭から絹糸に紡いで神宮に奉献されます。
もともとは明治よりもずっと前の平安時代から、「三河の国の絹糸は良質なもの」として神宮や朝廷に献上されていました。
滝本さんはこの伝統行事の一端を担って10年以上になります。
◯子どもの頃の夢
「意識していなかった」
器用でもない。
だからものづくりは向かない。
そんなふうに感じていたそうです。
ご両親が取り組んでいた農業を「できたらいいかな」くらいに考えていました。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「ご縁」
家では、小さな頃からお蚕を大切に飼っていました。
身近に生き物に触れる機会があったことで、昆虫への嫌悪感は全くありません。
むしろ住んでいる新城市は雄大な森が広がる自然豊かな場所。
夏にはクワガタ。
秋にはとんぼ。
特別に見に行かなくても、生活の中でそういった生き物を目にしていました。
大学では昆虫を専門に学んでいたそうです。
卒業後は実家には戻らず、農業試験場などで、公的に農薬などを調べるお仕事に就きます。
特にご両親を手伝いに新城へ帰ることはありませんでしたが、お父様が亡くなられたことや、ご自身の定年退職をきっかけに、ご実家へ移り住むことになりました。
養蚕をやっていたこともあって、ご実家には桑畑が広がります。
養蚕は手間がかかる割にはお金にはなりません。
また、養蚕の傍で農業を行う際、作物の栽培で農薬を使用することはできません。
農薬を使えば桑の葉に薬が残り、お蚕が育たなくなってしまいます。
このこともあって、養蚕業を引退していく人が多くいました。
その中で、新城市に滝本さんと海野さんの二人が残りました。
滝本さんのお父様が亡くなられたことから、海野さんの所で一緒にお蚕を飼うことになりました。
ベテランの海野さんに教えていただきながら、数年一緒に養蚕をやってきました。海野さんがいたからこそ続けられたのかなとのこと。
人と人とのつながり。
“縁”を感じながら、滝本さんは引き継いでいきます。
養蚕の先生であった海野さんは3年前に亡くなられてしまいました。
教科書通りにはいかない養蚕。
温度管理や、蚕の生育をそろえるための桑の葉のやり方。
全てが生き物との対話です。
10年の経験があっても、まだまだ教えて欲しいことは沢山あります。
そんな中、今の滝本さんの先生は、お母様です。
絶妙なタイミングを感じ取り、的確にアドバイスをしてくださいます。
家族や地域の人たちが力を合わせ、日本の伝統を守り続けます。
お母様に滝本さんが戻ってきたことについて尋ねると
「嬉しかった」
と笑顔でこたえてくださいます。
滝本さんは、続けて
「お母さんがいてくれないと困る」
とおっしゃいます。
すごく温かな空気。
しかし、私にはまだ滝本さんの言う
“縁”
に実感が湧いていません。
なぜ滝本さんは
“縁”
を強く感じているのか…
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「体を使う仕事」
会社に勤めていた頃は、一つの許可を得るために様々なところを経由しなければ実行に移せませんでした。
また、人に指示をしていかなければならない立場だった時は、
やる気にさせるためには…
気持ちよく動いてくれるためには…
様々なことに気を回します。
考えることが求められる仕事よりも、体を動かし自分で行動できる今の養蚕や農業の方が、ストレスがないとおっしゃいます。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「人に面倒をみてもらう」
滝本さんは
「周りに恵まれた」
「部下が優秀だった」
「幸運だった」
と感謝の言葉をすぐにおっしゃいます。
自分一人で抱え込まず、連携を取り、最後には必ず感謝を伝えます。
“ありがとう”
のたった5文字の言葉。
簡単なようで難しい言葉。
もしかすると、この言葉が自分を救ってくれる言葉になるのかもしれません。
◯未来ある子どもたちへのエール
「元気に生きていこう」
“自分のペースでいいんだよ”
“頑張らなくてもいいんだよ”
そんな言葉を受け取る現代の子どもたち。
「頑張らなくてもいい」という言葉が、時として冷たい刃物のように心を突き刺します。
頼られていない。
必要とされていない。
そんな言葉として捉えてしまうことも。
自分が生まれてきた意味。
自分が生きている意味。
自分の存在意義を探しています。
どれだけ環境が整っても、どれだけストレスがなくなっても、それは
“なんのために生きているのか”
の答えにはなっていきません。
生きようとする意志。
全てはそこから始まります。
◯インタビューをして
「生きたい!」
心から強く願っても、生きることができなかった青年たちがいます。
未来を語りたくとも、相手を想い、言葉を飲みこんだ青年たちがいます。
怖い。
辛い。
イヤだ。
そんな言葉をどれだけ吐き出したかっただろうか。
どれほど、甘えたかっただろうか。
1945年(昭和20年)4月7日土曜日。
戦艦「大和(やまと)」は沈没しました。
乗組員3332名。
生還できたのは276名。
乗組員の全員が、死を覚悟して。
日本の未来のため。
大切な人を護るため。
米軍の上陸が予想された沖縄。
大和は国民を護るため、船体を座礁させて戦う計画のため、沖縄に向け出港します。
最初から座礁を計画にしているので、いわゆる「水上特攻」です。
すでに東京や大阪では大空襲があり、多くの方が犠牲となっていました。
つい78年前の話。
滝本さんのお父様は戦艦大和の生還者276名のうちのお一人です。
大和が沈む時、死を覚悟しました。
頭をよぎったのは、故郷の体調を崩していたお母様の顔。
「生きなければ」
急にそんな感情が生まれてきます。
主砲を担当していたため、周りは頑丈な鉄の壁の部屋にいました。
自力で扉を開けることも、隙間から抜け出すこともできません。
沈む前に船が傾きます。
その傾きが重い扉を開け、なんとか外へ出ることができました。
奥さんの写真を部屋に置いてきてしまった仲間。
急いで部屋に戻ります。
また船が傾きます。
重い扉は閉じ、仲間は閉じ込められてしまいます。
常に死と隣り合わせの時間を過ごしていました。
海面には船から漏れ出した油が広がります。
その海面に出ようにも、船の沈む力に引きずられて思うように浮き上がれません。
一生懸命にもがきます。
息が続きません。
海面まで上がることができません。
もうダメだと死を感じます。
その時、海の中で爆発のようなものが赤く光ります。
光った瞬間、一気に海面に押し出されました。
お父様が戦争の経験を家族に話すことはあまりなかったそうです。
仲間たちに対して、自分が生き残ったことに申し訳ないという気持ちを抱いているから。
戦争を経験された方々は、みなさん同じように思っています。
滝本さんがお父様の経験を知ることができたのは、ジャーナリスト 門田隆将さんのお父様への取材でした。
もし、船の傾きが反対だったら。
もし爆発が起きていなかったら。
存在していなかったに違いない自分。
そんな思いになった時、今、生きていることの奇跡に気づき、その奇跡が“縁”となってつながっていくことを実感します。
“統”の漢字には「つながり」という意味があります。
つながりを伝え続けていくことを“伝統”と言います。
ただ、技だけでなく、その昔の人たちがどんな思いで、どんな気持ちでつないでいったのかを伝える役目として、もしかしたら“伝統”が残されているのかもしれません。
語り継がなくてはいけない。
大切なものを。
失うことのないように。
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