100人のプロの76人目のプロ‼️
「発達障害」
多くの人たちが一度は耳にしたことのある言葉。
診断される方たちが増えてきたことで、本屋さんにも関連した書籍が並びます。
学校現場でも、キーワードのようにして言葉が飛び交います。
学校の先生たちといえば、“発達障害”に関し充分に理解している。
そう思われています。
実際は大学の授業で扱ったことがあるくらい…。
…
「障害」と言われると、何だか病のように感じられます。
蝕む(むしばむ)病のように感じられます。
「障害」の表記を変え、
「ひらがなにすればいい!」
と言われたりもしますが、実際、何がいいかなど分かりません。
診断を知った子どもと、その時のことについて話したことがあります。
自分の生きづらさは障害によるものだったと安心する一方で、治らない病気になってしまったと、長い間落ち込んでいたそうです。
多くの書籍には、慰める言葉を重ねたものや、“普通とは違う”とするものが並んでいます。
インターネットで調べれば、障害の症状が書かれ、それによる生きづらさが書かれていたりします。
「病気である」
「劣っている」
「やれない」
などという言葉たちが、未来への好奇心を徐々に薄れさせます。
そんな中、ある本と出会います。
『発達障害の人が見ている世界』(アスコム刊)
その本の表紙カバーの内側に書かれている、いわゆる「袖(そで)」と呼
ばれる箇所に書かれている文章。
「決して能力が低いわけでも、人間性に問題があるわけでもありません」
「高い能力を発揮する可能性を秘めた人たち」
とても嬉しい言葉。
子どもたちの顔が浮かびます。
この言葉を書いてくださったのは、
「編集のプロ」出版社アスコムの菊地貴広さんです。
著者として、世の中に伝えていくのではなく、編集者として想いを届けてくださる菊地さん。
数々のベストセラーを世に出しています。
菊地さんの人生を少し教えていただきました。
◯子どもの頃の夢
「動物に関わる仕事」
子どもの頃から動物が大好きだったそうで、犬やカメを飼っていました。
捨て猫がいれば保護して、自分でミルクをあげたり、トイレの世話をしたり。
その様子をご家族も、温かく見守っていてくれました。
動物好きの菊地さんにとって「ムツゴロウ王国」は、大きな存在だったといいます。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「人との出逢い」
動物への気持ちはあるものの、ムツゴロウ王国のムツゴロウさんや、シートン動物記のシートン博士に憧れていた純粋でウブな感情は、成長と共に薄れていきました。
大学も終盤になってきた頃、就職を考える時期に。
特に深く考えることもなく、色々と受けて
“大手に就職できたらいいな〜”
そんなことを仲間同士で話していたそうです。
何かをやりたいという気持ちや、「こうなっていたい!」という熱い気持ちはなく、あらゆる職種の就職試験を受けていきました。
結果、いくつか内定をもらいます。
その中から、一番条件にマッチするところを選んでいきました。
「安心安全で…
親も喜ぶところで…」
惰性的な選択で、ある大手の有名企業に就職しました。
そこで配属された担当は“資材の手配”でした。
大企業ということもあり、様々な業務は分業されています。
仕事内容は、資材の調達や、仕入れる際の値段交渉。
何をつくっているのかは漠然と理解しているものの、自分の手配したものがどのように使われ、どう活用されていくのかを知りません。
手配した資材を、実際に目で見たり触れたりもありません。
書類上、データ上に材料の名前だけが、自分の前を通り過ぎていきます。
どうしても、そこに面白みを感じることができません。
ワクワクなどの感情も湧いてきません。
“仕事だから”
と割り切ってしまえばいいのかもしれませんが…
人生の大半は“仕事”。
割り切れない価値を求めたくなります。
働くとは!?
人生とは!?
そんな問いが浮かびます。
そんな時、出版社に就職した友人がいたことを思い出します。
楽しそうに仕事していた友人。
よく
“隣の芝生は青く見える”
なんて言われるものです。
しかし、菊地さんは子どもの頃から読書がとにかく好きでした。
週末ごとに図書館へ通い、中学生時代、同級生からは国語の問題を解くスピードが尋常ではないと言われたほどです。
色々と考えていると、
「出版社関係の仕事ならワクワクできるのではないか!?」
そんな感情が湧き起こります。
そして何人かの友人に出版社の仕事について尋ねます。
聞いているうちに、菊地さんは
「やってみたい!」
という気持ちに。
早速、転職活動。
無事に大手出版会社に転職することができました。
期待を膨らませながらの就職。
配属はファッション誌でした。
でも菊地さんは、ファッションに全く興味がありません。
しかし、気づけばそこでの勤続年数は11年。
ファッション誌を担当したことをきっかけに、ファッションへの興味を抱くように。
読んでくれる人が求めている情報を企画。
それを記事にしていくこと。
読者の方からの反響。
今まで遠かったお客さんとの距離感が、とても近くに感じることができます。
働くことを実感すると共に、自分の存在意義を認識するようになっていきました。
そんな中、他部署への配属が決まります。
それがファッション誌から離れるきっかけになります。
次なる配属先は手帳部門。
当時の業務は、手帳部門の立ち上げ。
それまで、いろいろな編集部がバラバラに作っていたブランド手帳やキャラクター手帳を、一手に引き受けて事業化する仕事でした。
担当者は菊地さんお一人。
何人かいて成り立つ部門を、菊地さんお一人でやっていかなくてはならないので、当たり前のように多忙を極めていきます。
新しいことを始めていくというのは前例がない分、大変です。
帰るのは終電後。
土日も仕事。
様々な犠牲があったのかもしれません。
それでも一心にやりきった結果、前年を大きく上回る売り上げを築きました。
会社としても喜ばしい話。
手帳部門を拡大し、人員を増やしていきます。
しかし、一人でやってきたことを部下に任せることによって、自分で制作する仕事は途端に減っていきます。
徐々に面白くないものになってしまいました。
時間や、生活にゆとりが生まれてきた時、張り詰めていた緊張感も同じように緩み始めます。
ひとりで食事をしている時のこと。
ご飯を食べていると、自然と口から食べているものがこぼれ始めます。
「あれ?」
慌てて鏡を見に行くと、顔の半分が麻痺していることに気づきます。
病院に行くと、即入院。
休みなしで働いていた体は、急に不調を訴え始めます。
休むべき時間を取り戻すかのように、入院中はひたすら療養。
「一生、治らない方が楽なのかも」
と思えてしまうほどにギャップを感じます。
このことをきっかけに、勤めていたところは退職。
フリーの編集者として再スタートします。
このままフリーの編集者として仕事を続けることもできます。
しかし、菊地さんにとって節目を迎えます。
お子さんの誕生です。
子どもができることで初めての視点に出会っていきます。
「フリーは楽しいけれど、このままで大丈夫だろうか!?」
子どものために、もう一度“組織”に戻ってもいいのかもしれない。
また、フリーとして何冊かの書籍を手掛けるうちに、こんな気持ちも芽生えていました。
「一つのテーマを深く掘り下げていきたい」
時代に流されず、大切なメッセージを作品に込めていきたい。
そんな想いを持って、株式会社アスコムの門を叩きます。
その面接を担当した局長から、本の存在意義について教えられます。
「本は誰かの困りごと、苦しさを解決するためにある」
改めて、そこまで深く考えてつくっていなかった自分に気づかされます。
その気づきは、
「ここで働きたい!」
という強い思いになっていました。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「子どもに関わる仕事」
お子さんが生まれたとき、菊地さんは
「世界の全部を見せてあげる」
と誓ったのですが、それは間違いだったと気づかされます。
その理由を教えてくださいました。
「春に咲く花の美しさや、短い生を謳歌する虫たちの命のまぶしさ。
夏の海、山、川。
秋の木々の色どり。
冬には雪を待ちわびる気持ち。
子どもの目を通して、もう一度見た世界は、とても輝いていました。
子どもの悲しいニュースに触れると、自分のことのように、胸が引き裂かれました。
遠くの国で起きている戦争を、本当に怖いと思うようになりました。
一人ひとりがみんな違うことを知りました。
楽しいものも、きれいなものも、悲しいものも、怖いものも、すべて子どもが教えてくれました。
世界の全部を見せてくれたのは、子どものほうだったのです。」
菊地さんの気づきは、自分にとってかけがえのないものになりました。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「辛かった時のことを思い出す」
“辛かった日々は、自分の財産”
辛い時に、そんなふうにはなかなか思えないかもしれません。
その辛さを一刻も早く改善したいと思うかもしれません。
でも、いつかその出来事は、必ず笑い話になっていきます。
菊地さんにとって、「辛かった時」は顔面麻痺になってしまったあの時。
今となっては、どんなに忙しくても、
「あの時を乗り越えた」
と思えるそうです。
◯未来ある子どもたちへのエール
「辛いこと、苦しいことがたくさんあるかもしれない。
でも、たくさんあるほど人は優しくなるんだよ。」
「苦労しなきゃ、優しくなれねぇからな」
大学時代の恩師に言われた言葉。
この言葉はグッと菊地さんの胸に刺さりました。
“優しい”ということが、人間にとって一番大切な資質なのだと菊地さんはおっしゃいます。
しかし同時に、“優しい”ことの難しさも痛感していらっしゃいました。
苦労しなくていいのなら、したくはありません。
けど…人の痛みをわかっている人の、人としての厚みは、一つの仕草でも違いが出てくるもんなんですよね。
それが、“魅力”というものなのでしょうか。
◯インタビューをして
気づけばたくさんの時間を頂きました。
有り難さと申し訳なさが入り混じった感謝の言葉を、お辞儀と共にお伝えしました。
その後、心の筋トレ部の活動について菊地さんが尋ねてくださいます。
それに答えると、次の質問を関心を持って尋ねてくださいます。
そのまま話しながらエレベーターまで。
エレベーターを待つその短い時間。
少し間を置いて、
「何か協力できることがあれば、いつでも言ってくださいね」
そんな素敵な言葉を最後に贈ってくださいました。
…
嬉しかったです。
時間やエールを頂き、その上で…この言葉。
風を冷たく感じる夕方の東京。
温かい言葉に心が温まります。
“子どもたちのために”
そんな人がいると言うことを、一人でも多くの子どもたちに知らせたい。
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