100人のプロの77人目のプロ‼️
媚びぬ者は輪から除外されてしまう世の中で、私は品川さんのような行動をとることができませんでした。
ある学校での出来事。
校長先生が朝礼台にのぼり話し始めます。
子どもたちの参加を促す、いつもと少し違った形式。
「学校をより良いものにしましょう!」
と問いかけると、子どもたちが何かしらの掛け声で返事。
初めての取り組みに各学年、思考を凝らします。
担任の先生たちも一緒になって考え、良い掛け声が決まったらしく、先生たちは笑顔です。
「決まりましたか?」
校長も笑顔で尋ねると、先生たちが両手を上げ、輪っかをつくり
「大丈夫です」
と返事をします。
「では、もう一度言いますね。
“学校をより良いものにしましょう!”」
…
(せーの!)
「当たり前だ〜!」
…
(せーの!)
「まかせろ〜!」
二つの学年がそんな返事をします。
道徳を教える学校。
礼儀を目標に掲げる学校。
「和気藹々(わきあいあい)と馴れ合いは違います!」
そんな言葉をすぐに言いたかった。
敬語を話す機会が失われてきている子どもたちに、堂々とその違いを話したかった。
もし、“品川さん”だったら言っていたに違いない。
もし、“品川さん”だったら…
そんな思いが私の頭を巡ります。
“品川さん”は小説『川のほとりに立つ者は』の中に出てくる登場人物。
小説の中のお話で、お客さんに無理難題を言われても、渋々受けてしまうカフェの店員たちの中で、
「できません!」
とはっきり言うシーンに、私の姿と重ねました。
この著書の作者は寺地はるなさんです。
「小説のプロ」としてお話を伺うことができました。
◯子どもの頃の夢
「あんまりなかった」
作文などで
「将来の夢」
を書かなくてはいけない時があり、毎回困っていたそうです。
嘘を書いたり、テキトーに書いたり…
小説家として様々な作品を世に出し、多くの人たちに影響を与えている寺地さん。
読書は好きなものの、書いてみたいという思いはありませんでした。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「保育にお金がかかった」
学校というところはまるで、できない自分を強調させるような場所。
子どもの頃の寺地さんは、“できたらいい”とされるものは、ほとんどできませんでした。
運動や、勉強。
時計を見て何時何分なのかを読み取ることも苦手。
授業では先生が言っていることが分からないので、次第にボーっと過ごしていると、より授業の内容が入ってきませんでした。
お父様が小学校の先生だったこともあって、たまに勉強を見てもらえる時がありました。
教えても理解している様子がない寺地さんに、徐々にお父様はイライラし始めます。
「分からないことが分かっていないから、ダメなんだ!」
最終的にはそんなふうに言われてしまいます。
特に反論することもできず、親から“ダメ”と言われてしまえば、それを受け入れるしかありませんでした。
できない自分が晒され続け、気持ちはすり減っていきます。
「何を、どうすればいいのか!?」
その答えがない世界は、まるで心にモヤがかかった道をひたすら歩き続けるような。
一日一日を精一杯に、乗り切っていきます。
“できない”
がそのままでいいと思っている子どもはいません。
もがいて、もがいて。
それでも上手くいかず。
“できない”という現実を見せつけられ、次第に自分への期待を忘れてしまいます。
すり減らしながら耐えていく寺地さんの心を支えていたのは、読書でした。
本の中の世界は、現実よりもっと広くて、もっとキレイで。
中学2年生の夏。
夏休み前に配付された通知表。
中を見ると…「1」の数字が。
それは、お母様にとって危機感を抱いた瞬間でした。
“できない”がどれほどなのかを知ったお母様は、すぐに近所の公文に寺地さんを連れていきます。
塾の先生が寺地さんの成績を見て
「これは…」
となり、通常は週2日でいいところを、
「君は週4日来なさい」
と言われてしまいました。
公文は基礎の基礎まで遡ります。
中2の寺地さんは算数まで遡り、割り算から始めていくことになりました。
公文では、様々な年齢の子どもたちが同じ教室で勉強をします。
寺地さんの隣は小学2年生の男の子。
その子の問題に目をやると、自分よりもはるかにレベルの高い問題に取り組んでいました。
自分との差に今まで感じてこなかった「焦り」を感じ始めます。
そして、担任の先生との面談の際に、今の状態で受験できる高校を教えられます。
評判の良くない高校。
その現実に危機感というスイッチが入り、努力を重ねていくようになります。
解けなかった問題を一つ一つ丁寧に。
一問解き、また次の一問。
次第に“できない”が“できる”に変わっていきます。
それと同時に、学ぶ喜びを経験します。
何を言っているか分からなかった授業が分かるように。
1年が経つ頃には、最下位に近かった成績が、真ん中くらいまで成長していきました。
今まで一緒に過ごしていた友人は、寺地さんの様子に焦りを感じ始めます。
同じような成績で、同じように“できない”と言ってられることで
「独りではない」
という安心感を得ていた友人。
だから、その安心感を守るために…。
テストで寺地さんの方がいい時は、泣いて困らせるようになりました。
公文で頑張っていると知れば、同じように公文に通い始めます。
でも学習の差を知ると、また泣き出します。
頑張って結果を出せば、学校では泣かれ、やがてその友人は離れていき、独りになるかもしれない。
でも結果を出さなければ、両親に心配されてしまうかもしれない。
その狭間を調整しながらすり抜けていきます。
テストでは、分かっている問題に敢えて、答えを書かないこともありました。
友人も学校という環境を生き抜くために必死だったのかもしれません。
けれど、寺地さん自身、今思えば
「そんなこと」
と思えるようなこと。
それでも当時は、色々なこと必死に考えながら、周りに気を遣いながら、一生懸命に過ごしていました。
人生は
“こうしなければいけない”
なんて決まっていないのになぜか、誰かがつくったような空気みたいなものに息苦しさを感じながらも、それに従ってしまいます。
抜け出そうとするものの、その勇気が出なくて、自分を抑え込んでしまっていたり。
寺地さんも中学生の頃は、そうだったのかもしれません。
しかし、高校入学を一つのきっかけに、徐々に自分の時間を楽しめるようになっていきました。
新しい環境がそうさせていったのか、希望する高校に入学できたことによるものなのか…。
高校卒業後は、特に就職することはせず、フリーターとして生活していくことになりました。
未来を心配したご両親は
「将来どうするんだ!」
と言葉に出し伝えます。
寺地さんは
「うん。うん。分かった。」
そんなふうに返事を。
未来を考えない訳ではありません。
ただ、この楽しさが永遠に続くという傲慢さが、19歳の寺地さんにはありました。
卒業後の2年間。
それは自由な2年間であり、心配され続けた2年間でもありました。
「無駄」
という一言で片付けることもできます。
でも決して「無駄」が悪いことではないと、当時を振り返ります。
時計を読むことができるようになったのは、高校生の頃でした。
2年後、地元に戻り税理士事務所で働きます。
理由はお給料が良かったから。
でも所長にはひたすら怒られていたそうです。
「常識で考えたら分かるでしょ!?」
“常識”
“普通”
“当たり前”
そんな言葉たちが寺地さんを攻撃してきます。
「え!?
初耳ですけど?」
「常識!?
あなたの周りの数人くらいにだけに当てはまることでしょ?」
言葉にはせず、心の中で反論を繰り広げていきます。
卑屈になってしまう状況のお話も、寺地さんの表現にかかれば、それも一つの人間ドラマとして聞き入ってしまいます。
お話をつくる方の表現力って、スゴイです。
恨み節のまま、7年が経ちます。
本当はもっと早くに辞める予定だったそうです。
「代わりはいくらでもいる」
所長に言われたこの言葉を見返すため、辞められたら一番困る時期を見計らっていたら、7年も経っていたのです。
「せめて決算で忙しい3月に辞めて仕返しを!」
その企みの結果、寺地さんのご結婚の都合で4月にずれてしまいました。
寿退社の後は、新天地にご主人と共に移り住みます。
子宝にも恵まれます。
お子さんが、保育園に預けられるくらいまでに成長した頃、寺地さんはパートとして働き始めます。
しかし、パートで稼ぐ金額と、保育で預ける金額がほぼ変わりません。
「働いている意味はあるのか?」
となり、家でできる仕事を探していきます。
消去法で選択しながら出会ったものが、“小説の公募”。
優勝賞金はとても魅力的なものでした。
「小説を書くことは嫌ではない。
やってみてもいいのかも」
そんな気持ちで書き始めます。
様々な出来事が重なって、その時のタイミングがたまたまハマったからこそ、小説を書くようになっているとおっしゃいます。
モヤの中で心を支えた小説たち。
今は、寺地さんが誰かの心の支えとして、言葉を届けます。
その言葉は、朝焼けの陽の光のように、読者の心を温かく包み込みます。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「伝統的なものづくりの職人」
手先が器用ではないために、最初から諦めていたそうです。
後継者不足で厳しい世界。
もしかしたら、“挑戦”することよりも“諦める”子どもたちが増えているからなのかもしれません。
大人になって気づく価値。
もっと、子どもの頃から触れ合える機会があったのなら…
そんな気持ちになります。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「乗り切っていない。
嫌なことは嫌なまま持っていてもいい。」
自分の感情を見て見ぬふりして、偽りの感情を上から被せて自分を誤魔化してみたり。
「嫌だったことは将来の糧になるから」
と下心で嫌なことを見てみたり。
そんなふうに無理矢理違うものへと変える必要はありません。
嫌なものは嫌なもの。
辛い過去は辛い過去。
むしろそれが人間らしさなのかもしれません。
◯未来ある子どもたちへのエール
「今を誠実に生きていれば、明るいところに出られる。
世界が見つけてくれる。
どういう形で現れるかは分からないけど、
劇的なきっかけで変わる人なんていない。
一つ、一つのきっかけ。」
メッセージは一言で伝えられるものではないとおっしゃる寺地さん。
まだ見ぬ子どもたち。
いつか逢うかもしれない大人たち。
大切な人を想うように、その人たちを想像をしながら発してくださった言葉。
自分自身を大切にしてほしいという願いが、伝わってきました。
◯インタビューをして
「活字離れが進んでいる!」
ある日、学校の図書館担当が叫びました。
図書館の利用の改善策として、一人ずつの貸し出しをポイント制にし、学級対抗や学年対抗で競わせます。
「筆者は何を思って『それ』と言ったのか、30字以内で答えなさい。」
ある日の授業で国語の教師が、学級のみんなに尋ねていました。
31字の生徒の解答欄には、赤色のペンで角張った図形が書き込まれています。
寺地さんはあなたへの手紙として本を書きます。
あなたに届いてほしいという願いを込めて。
もし、寺地さんの本を読んで
「自分へのメッセージ!?」
と思うことがあったのなら、それは正しい。
だって、
あなたのために書き上げたものだから。
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