100人のプロの52人目のプロ‼️
私たちをギャラリーの2階に通して頂いた。
Aさんのお話を伺う際、Aさんの後ろには沢山の作品が飾られています。
思わず
「わ〜」
と声が漏れます。
「良かったら見て下さい」
その言葉に甘えて、すぐさまそちらへ向かう。
「この生地は半永久的に形状を記憶していますので、洗濯しても大丈夫なんです」
たまたま私が着ていたジャケットもその加工がしてあるものだったので、
「あ!」
と私が言うと…
「そうです。そちらのメーカーさんも一緒に仕事をさせてもらっています」
着物のイメージが強かっただけに「ジャケット」への応用に衝撃的でした。
右には大きなレースのカーテンが。
「まるで水面の波紋のよう」
と私が声を漏らすと…
「そうです!波紋ですね。その表現がぴったりだ」
答えのない感性に、共有する表現を見つけられたことが素直に嬉しかったです。
こんな言葉でなければいけない。
模様といえばこれでなければいけない。
そういった固定概念はなく、もっと自由で、もっと柔軟に。
それが「有松絞りのプロ」Aさんに教えて頂いた「有松絞り」。
繋がっていく発想と発想に、圧倒されながらのお時間でした。
◯子どもの頃の夢
「研究者になりたい」
小学生や中学生の頃には、自分がどこの息子なのかを周りはみんな知っています。
「絞り屋の息子」と同級生にいじられることは、一つのコミュニケーションとして問題はありません。
しかし、大人たちからの「絞り屋の息子」という視点に、純粋な気持ちにはなれなかったそうです。
代々続く看板を背負うことの責任なのでしょうか。
親戚の方々は
「継がなきゃだめだよ」
「代々続いているんだからね」
と、どんな仕事であるか!?と言うより、責任の重さを強調されます。
学校の先生からは
「お父さんに講師の件、お願いしておいてほしい」
と調整役としての立場を要求されます。
自分の行動に「家業」の評判を左右させる危うさがある中で、
「縛られたくない」
という思いは日に日に強くなっていきます。
その反発からなのか、中学生の頃から興味のあった「化学」の本を読むようになっていきました。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「ドンピシャ!」
救いだったことは、ご両親からは「後継者」として見られていなかったこと。
大切な息子としてお父様も、お母様も接して下さっていたこと。
「お父さんの代で終わってもいい」
その思いで、興味のあった「プラズマ工学」を大学で学び、研究員になっていきます。
Aさんの決意にご両親は反対しませんでした。
お父様も昔は「継ぎたくない」と思っていたこともあっての親心なのかもしれません。
最初に生地を見させて頂いた際、説明をして下さいましたが、とても分かりやすく、感覚と共に「化学的」な説明でした。
生地といえば「家庭科」の分野でしょうか。
もし家庭科の授業がこんな感じなら、「学びたい!」という思いになりました。
Aさんは期待を胸に、研究員としての時間を過ごしていきます。
グラフの点を一つ取るのに約3時間かけます。
30〜40個の結果を得て、グラフの点に記載していく作業が必要になります。
40個のデータを取るまでにざっと…120時間といったところでしょうか。
研究の完成までに一体どれほどの時間を要するのか!?
Aさんにとって、待てなかった時間でした。
もっとすぐに分かって、すぐ次に生かすことが好きだっただけに、研究員の魅力は薄れていってしまいました。
しばらくして辞めます。
お父様の体調も優れなかったこともあり、家業をバイト感覚で手伝います。
Aさんの工場は「染色」が専門ですが、他の技術を知る必要もあります。
「絞り」の師匠の元へ学びにいきます。
「どこ」を「どう」やっていくと「どのような」模様になっていくのか!?
師匠は「有松絞り教室」をAさんに任せていきます。
Aさんに「教えきった」からではありません。
「教える」ことで技術を身につけさせるためです。
教室に来て下さる生徒さんは、お金を払って学びにきます。
その生徒さんにいい加減なことはできません。
Aさんは教えるために学びます。
「知っている」のと「教えられる」のでは知識の量が異なります。
「教える」ために更に学びます。
そのような中、「ご自分のブランドを立ち上げたい」と一生懸命に頑張っている方の依頼が入ります。
ファッション業界のデザイナーたちは、民族衣装であったり、伝統からインスパイアを受けると聞いたことがあります。
Aさんが出会った方も、始めるにあたって唯一無二の作品を制作しようとしていました。
何度か話し合い、Aさんはイメージを形にしていきます。
一生懸命に頑張っている方との時間は、自然と自分の熱量も上がっていきます。
全力で応えられるよう真剣に。
サンプルができました。
お客さんは、
「…ドンピシャ!」
と言い放ちます。
その言葉が伝統工芸「有松絞り」の魅力をAさんに感じさせた瞬間でした。
そのことをきっかけに家業に腰を入れて取り組んでいきます。
気づけば分からないことばかり。
歴史について。
技法について。
知れば知るほどに、道は拓けていきます。
知れば知るほどに、お父様の偉大さに気づきます。
「後を継ぎます」
その言葉は言わずもがな。
なぜなら、Aさんの姿を見ていれば「何をしていくのか!?」
「何をしたいのか!?」
自然と伝わってくるからです。
言葉なくとも繋がり、意志示さずとも分かり合える。
それが「阿吽」の継承です。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「教師」
技術を伝えていきたいという思いがあります。
お師匠さんに教室を任されたことで「教える」ことの魅力を知りました。
学校側の講師の依頼が来た際には、積極的に応えて下さっています。
その際に、子どもたちの反応がイマイチであれば、自分自身の授業力を振り返ります。
伝統工芸の工程を言葉で表現していけば、膨大な量の言葉になってしまいます。
どう技術や魅力を伝えられるか!?
未だに様々な所へ行き、様々な方法を取り入れ、自分の教える技術としていきます。
フランスでも講義をしに行ったことがあるそうです。
ヨーロッパでは、こうした染物などの技術は途絶えてしまい、古来からの技法を知る術がないそうです。
そういった意味でも、日本の遺産である「有松絞り」は貴重な技術。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「自分のアイデア」
中学生の頃に「アイデア」に助けられ、「アイデア」を生み出すことへの自信が、目栄えたそうです。
文化祭で、動画の作成を昨年作成した完成度の高さを期待され、動画の監督・編集を同級生から依頼されます。
昨年は編集が得意な先生と共に制作していました。
しかし、その先生は異動されてしまいました。
とりあえずカメラを回します。
録画がテープであった当時、たくさん撮ったら撮った分、費用がかかっていきます。
とりあえず回しているので、気づけば結構な量のテープに。
そのことを新しく担当した先生から厳しく指導を受けます。
同級生からは期待され、教員からは制限がかかり、まさに板挟み状態でした。
必死に考えます。
なんとかアイデアを絞り出します。
そのアイデアのお陰でピンチを乗り越え、動画の作成に成功します。
その出来事をきっかけに、「ピンチはアイデアで乗り切る」という技術が身についたそうです。
◯発達個性を持った子どもたちへのエール
「自由なものを発信できるようにこちらが提供できるようにならないといけない。
『これして』『あれして』は他の誰かでもできる。
もち味を、こちらが受けられたらいい」
様々な施設で支援に行かれたこともあるそうです。
その中で保護者の方は、子どもの「生活自立」を心配されていました。
何かできないか!?
と考え、「有松絞り」の技法を伝えます。
「こうしてください」
「このようにしてください」
みんなは決して楽しくなさそう。
だから…
思うようにやってもらったそうです。
するとようやく楽しそうに活動を始めました。
それが「商品に」「作品に」と考えてしまうと、「こうしなきゃ」という気持ちが湧いてきます。
だから、それを生かしきれていない「私」側の問題なんだと思ったそうです。
個性が発揮される世の中を。
個性が輝く世界観を。
Aさんはつくっていきたいと思っています。
◯インタビューをして
日本の価値を知らないのは日本人なのかも知れません。
それは世界を知らないからなのか!?
日本を知らないからなのか!?
「流行」というものには移り変わりがあります。
「伝統」は古来からの「流行」で、移り変わらず残り続けたものだと思います。
中国を工場の拠点としてきた企業たちは、こぞって移動し始めています。
中国の人件費等の変化に伴って。
その中で品質や人件費からの観点から注目を集めている国があります。
それが
「日本」
です。
海外の有名企業が首相と会談しているのをニュースで見かけます。
「有松絞り」という伝統工芸も、フランスで講義をすれば質問の嵐。
それは興味があるからです。
鏡を通してでなければ自分の顔を確認することができないのと同じように…
もし、自分の国の価値を知るために、海外という鏡を見なければならないのなら、早く見なければいけません。
日本の価値であるものが、日本のものであるうちに。
もっと誇りと、自信を抱くために、学校ができる役割を私たち教員は考えなければなりません。
もっと柔軟に。
もっと大切に。
職人の方々の準備は整っています。
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