100人のプロの70人目のプロ‼️
絹といえば…
スーツ、ネクタイ、スカーフ、呉服などなどに使われる素材。
絹の糸は“生糸”。
「生きている糸」
と書かれるのは“蚕”がサナギになるために、はく糸が原料だからです。
日本の各地で昔は養蚕業が盛んに行われていました。
感謝の気持ちを込め「お」と「さん」をつけて「お蚕さん」と呼びます。
石川県の白峰には日本三大紬の一つと言われる“牛首紬(うしくびつむぎ)”があります。
“紬”は紬糸で織られた絹織物。
牛首紬の“紬糸”は玉繭(たままゆ)を紡いで作られた絹糸のこと。
“玉繭”は2匹のお蚕さんが共同で一つの繭をつくったもの。
なので大きさは通常と比べ約2倍。
玉繭の割合は全体の約2〜3%程度。
この繭を1本の糸に引っ張っていくのですが、途中で二重になっていたり、太さもまちまちなので高級な生糸とは違い、“使い道がない”という意味で以前は
「くず」
と表現されていました。
必ず出現してくる“くず繭”。
しかし、せっかくお蚕さんから頂いた大切な資源。
何とか使えないものかと先人の方々が知恵を絞ります。
それがこの紬糸で作られる“牛首紬”でした。
横の糸に“玉繭”を使うことで、独特な模様が作り出されます。
生糸より太さがあることで、丈夫になり、「釘を抜くこともできる」と言われるほどに。
そんな先人の方々が繋いでくださった知恵を、終戦をきっかけに失ってしまう危機が訪れます。
終戦の混乱の中、食糧難の時代に着物への関心は薄れていました。
売れなければ、次第に作られなくなっていきます。
長い歴史を持つ“牛首紬”という文化。
気を抜けば、あっという間に失ってしまう技術。
技術を一度失えば、取り戻すことはできません。
その価値にちゃんと気づき、守ろうと動いたのが今回のプロ、西山さんのお祖父様です。
文化を繋いでいく牛首紬のプロ、西山さんにお話を伺いました。
◯子どもの頃の夢
「海洋生物学者か花屋さん」
石川県白峰という地域は、雪が降ればあっという間に豪雪地。
平年の積雪は2m以上。
港まで1時間の距離。
金沢の市街地もそのくらいの時間で行くことができます。
山も海もある自然豊かなステキなところで、幼少期を過ごします。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「父からの言葉」
繭はもともとノリのような粘着で一つの固まりになっています。
それをほぐすために90度のお湯に浸しながら解いていきます。
60個程の玉繭から糸を引き、滑車にまとわせ、絶えず100本ほどのまとまりになるよう調整していきます。
どこに糸があって、どう繋がってて、どこが絡まっているのか…
そんなことを見極めながら、手から入る感覚を頼りにたぐっていきます。
繭の糸が切れた時は、90度のお湯に手を入れ、新たなる繭を繋いでいきます。
お湯の熱さから逃げるために感覚を無視してしまっては、糸の感覚も失ってしまいます。
絶妙なバランスのもと、丁寧に作業を続けます。
その後も、洗いの作業や、染めの作業や、織機にセットする作業。
様々な工程を経て始めて織っていきます。
織る作業はベテランの方でも、一日に3mほど。
13mで一反なので、やく4分の1ほど。
一反の着物を作るのに、糸作りから織りを終えるまでに掛かる時間は2カ月程。
着物が高級品であるという感覚は、この一連を知り、見ることができたのなら、深く頷けます。
西山さんが行うことができるのは、“ガタン”“ガタン”と鳴らす「製織」。
元々建設業を営んでいたお祖父様。
会社が軌道に乗り出していた時、牛首紬の存続が危機にあることを知ります。
雇用、伝統、環境。
地元の企業だからこそ、地元のそれらを守る意志があります。
現代では「儲かればいい」という利己的な企業をよく見かけますが、お祖父様の意志は大切な企業の姿なのかもしれません。
異業種ではあるものの“牛首紬”を白山工房の設立で保護していきます。
西山さんは子どもの頃から、よくその工房に遊びに来ていました。
就職を考える歳は、就職氷河期と言われた時期と重なりました。
海洋生物学者と夢を見ていた頃とは違い、堅実性を求めるようになっていました。
氷河期ということもあって、様々な情報が飛び交います。
職種を選り好みしている場合ではないという気持ちがうまれてきます。
受けた就職試験は50社以上。
医薬品関係に就職したい気持ちもあったのですが、豚インフルが叫ばれ試験は延期の連続。
内定をもらっていた第2希望の繊維業に就職を決めます。
仕事は繊維の開発。
アウトドア系のものや、肌着のものなど様々な分野での開発です。
子どもの頃に遊びに行っていた工房とは少し違うけど、家業と同じ繊維業。
頑張っていこうとする気持ちがあるものの、頑張りきることができない現実が西山さんの頭を交差していきます。
開発で「やりたい」と思ったことでも、多くの会議を必要とします。
経営という面では時間をかけることは大切なことですが、時として時代の波に乗り切れないこともあります。
そして、開発以外の「現場」と「上司」の板挟みという業務。
使命感や、充実感を味わうことは難しくなっていきました。
そんな時、お父様から
「戻ってこないか?」
と告げられます。
着物を着る文化が薄れてきている日本。
その中で、営業面を強化していく必要性を感じてのお父様からの言葉でした。
西山さんは快くその言葉を受け止めていきます。
子どもの頃から触れ合ってきた牛首紬。
ただ売るのではなく、着物の紬ができるまでの物語を知る必要性を感じます。
すぐに牛首紬の生産に携わります。
私たちに説明してくださった時、その価値により気づけたのは、西山さんの想いが伝わってきたからです。
西山さんに尋ねます。
「尊敬する人はどなたですか?」
この工房を設立したお祖父様なのかなと、情熱を持って話される姿を見て感じていました。
西山さんは迷わず
「ここのおばちゃんたち。」
それぞれの担当の方たちは、それぞれにプライドやポリシーを抱きながら作業を行っています。
想いがあるから、譲れないものがあり、心をこめるから価値が生まれます。
だからこそ
“着てほしい”
と西山さんが心から思える紬が完成していくのだと思います。
「文化を守る!」という使命感や、おばちゃんたち一人一人の心を込めていく姿を、間近で感じながら作り出される充実感が、西山さんのやりがいとなっていきます。
高級品という印象のある牛首紬。
確かに高級品です。
しかし、着物のすごさは親子代々引き継いで着ていくことができます。
一度仕立てられても、また調整ができます。
繋いで、紡いで、繋がっていく。
それが着物です。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「船に乗りたい」
海洋生物を調べるために!
という子どもの頃の描いていた夢ではなく、タンカーに乗って乗組員として世界を回ってみたいそうです。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「パッとうまいもん食べて、サッと寝るのがいい」
お風呂に入ったり、楽しみにしていたお酒を飲んだり、日常の中で当たり前とも思えるような出来事が、大切な当たり前になっていたりします。
その時間が、少しずつ嫌なことを消化していってくれます。
西山さんは、愚痴をこぼすことはあまりないそうです。
休日には釣りに行き、ぼーっとして過ごします。
しかしその時間も、考えていないようで考えていたり。
冷静に。
もっと深く。
色々な角度から物事を捉え、解決の道筋を見つけることが「当たり前の生活」からできるそうです。
◯未来ある子どもたちへのエール
「自信は自分でやらないとついていかない。
気持ちも大事だけど、まずはやってみる。
ガンガンいこうぜ!」
エールをくださいとお伝えすると、今まですぐに返ってきた答えが急に止まります。
「責任重大」
と言い、じっくりと考えてくださいます。
考える時間の中に、ご自分の経験を照らし合わせたのかもしれません。
数ミリの太さしかない紬糸で編まれていく紬。
難しい「製織」。
右手、右足。
左手、左足。
それぞれが違う動きをしていきます。
やってみなければ、できるようになるのか!?どうやってもできないのか!?それすら分かりません。
一回の織り機の「ガタン」で織る長さは数ミリ。
でもそれを丁寧に、一つ一つ重ねていけば数メートルに。
どんな小さな小さな一歩でも、まずはやってみなければ。
その一歩が重なれば、大きな成果となって自らが気づく時は来るはず。
その成果が「自信」と呼ばれるものに、必ずなっていくはずです。
◯インタビューをして
西山さんは“着物”を今の若い人にも、知ってもらおうと努力し続けます。
着物を着る人たちは減ってきました。
腰を痛めたら、着物を着ることは難しくなってしまいます。
着物を着ることができるのは、永遠ではありません。
まだ着ることができるという恵まれた状態に、私は気づいていませんでした。
紬の業界も現代の洋服に加工し、新しい形で登場してきています。
それはそれで一つの姿だと、西山さんは否定しません。
売れるから売れる方をつくる。
これに傾けば伝統は守れません。
売れるか、売れないかではなく、残していくべきかそうでないか。
日本の受け継がれてきた文化は、100年後の子どもたちにも受け継いでいきたい。
一度失えば二度と手にすることができない技術。
経営としての理念よりも文化としての理念。
そういう方が日本の大きな力なんだと思います。
誇りを持って「伝えたい」と思える文化がある今。
その有り難さに、気づかなければいけないのかもしれません。
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