100人のプロの72人目のプロ‼️

首相官邸を右手に数十秒真っ直ぐ進みます。

左手に内閣府の建物が見えてきます。

ハンドルを左に切ると警察官の方がいらっしゃいます。

窓を開け

「こんにちは。16時から約束をしています心の筋トレ部です」

「こんにちは。心の筋トレ部さんですね。8号館は隣になりますがよろしいですか?」

車のナンバーを見て、

私たちが誰か!?

どこの会館で何時から約束なのか!?

それらを把握し、その上でお話ししてくださっています。

会館を間違え、私たちの戸惑う様子がわかるとすぐに

「中で繋がっているので、こちらからでも行けますよ」

キビキビとした親切な対応。

そのまま駐車します。

車を降り、玄関に向かうと受付の方が

「心の筋トレ部さんですね」

と言って館内に入るための通行証を渡してくれました。

通行証を首からさげ、セキュリティを通り右に進みます。

8号館には食堂がありました。

緊張のため食欲はなかったのですが、「トマトチキンカレー」という美味しそうな響きに

「インタビューをさせていただいた後、いただこう」

と心に決めて、エレベーターで上の階へ。

目指した階に到着し、歩みを進めます。

突き当たりの部屋に本日、お会いするプロの方がいらっしゃいます。

原子力委員会の委員長、上坂さんです。


上坂さんは今回のインタビューのために、様々な準備をしてくださっていました。

私たちがスムーズに入館できたのもその一つ。

部屋に通していただき、上坂さんと内閣府のお二人と共に、椅子に腰をかけます。

私が自己紹介をし、インタビューを始めようとすると、上坂さんが

「申し訳ないけど、先にいくつか尋ねてもいいですか?」

そういって、持っていたノートを広げ、鉛筆を片手に上坂さんからいくつかの質問をいただきます。

私たちが答えるたびに、真剣にメモを残してくださる上坂さん。

学校で呼び出された時に見る上司の姿とはまるで違います。

上坂さんは、なぜそのような質問をするのか、その答えに対してどう思ったのかなど、親身にお話をしてくださいます。

だから私も

「一生懸命に応えよう」

そんな思いになります。

上坂さんからの質問が一通り終わると、昔受け持っておられた学生さんの幸せ話を、笑顔で教えてくださいます。

今思えばこのお話も、私たちに贈ってくださったエールなのかもしれません。


◯子どもの頃の夢

「科学者」


小学生の頃から漠然と抱いていた夢。

お母様が図鑑を買ってくれたこともあって、昆虫好きの少年でした。

地元でよく虫捕りをしたり、草野球をして過ごしていたそうです。

1990年まで放送されていた「動物の王国」は、上坂さんお気に入りの番組。

現代は、昆虫に触れることすら恐怖に感じる子が多くいます。

小さな小さな蛾(ガ)を目にすることすら、「キャー」と走って逃げる中学生がいるくらい。

「動物の王国」のように多種多様な動物を知る機会が減ってしまったことも、原因の一つかもしれません。


◯今の仕事に就いたきっかけ

「石油危機(オイルショック)」


小学生の頃は、ほとんど勉強をしていませんでした。

野球など、遊ぶことに夢中で勉強に意識が向きません。

しかし、5年生の時。

算数のテストで今までにない点数をとってしまったそうです。

普段は優しいお父様も、そのことに対しては厳しく対応します。

夕食を食べた8時頃からは部屋に閉じ込められ、ひたすら勉強を。

上坂さん自身反省する気持ちもあったので、反発することはありませんでした。

努力の甲斐あって、テストで…

なんと100点を取ります。


「自分はやればできる」

この出来事は上坂さんにとって、大きな経験となりました。

努力をした分、結果につながっていくことに喜びを感じていきます。

小6の担任の先生は、やる気を上手に盛り上げてくれる人でした。

そのことが上坂さんの勉強への気持ちを、さらに向上させていきます。

「野球少年」「虫捕り少年」は、いつしか「勉強する子」へ。


1970年代。

世界規模で混乱が生じます。

「石油危機(オイルショック)」です。

“石油製品が今後なくなる”

その噂は日本全国で広がり、焦った人たちは買いだめに走り、商品棚にトイレットペーパーがなくなるという事態に発展していきました。

深刻だったのは電力不足。

冷暖房の温度調節や、東京タワーの消灯、エスカレーターの休止など、節電のために様々な取り組みが行われていました。

石油危機は世界規模の混乱を招いていきます。

しかしこの危機が上坂さんを「エネルギー」の道へと誘います。


500円玉くらいの大きさのウラン一つで約8ヶ月間、家庭用の電気をまかなうことができます。

ウラン1gは、石炭なら3トン、石油なら2000リットル分のエネルギーに相当します。

上坂さんは東京大学で当時、最先端だった“原子力”を専攻していきます。

理論を中心に研究していくのではなく、自分で何かをつくり、社会に貢献していきたい。

この思いから研究と努力を重ねていきました。

その積み重ねは、アメリカ留学への決意となっていきます。

留学の切符を手に入れる試験に合格し、本場アメリカで原子力を学ぶことが決まりました。

しかし、指定された大学は上坂さんが希望した分野ではありません。

上坂さんが希望したのは、「磁場閉じ込め方式核融合」であって「レーザー核融合」ではありません。

せっかく手に入れたチャンスですが、関係機関に手紙で抗議します。


核融合???

頭からまるで湯気が出て、熱を帯び、携帯で例えるのなら画面が黒くなったかのような状態になった私。

それを察知した上坂さんはすぐに説明をしてくださいます。

「核融合はね、簡単にザックリいうと『恒星』のこと。

 太陽もその一つでまさに天然の核融合だね。」

その恒星のエネルギーを地球の中で実現しようとしている。

一つの理解が次の理解につながり、それが好奇心へと繋がっていきます。

もし理科の先生が上坂さんだったのなら、私の理科への興味はどれほど膨らんだことだろうか…

そう思うと同時に、教える者の責任を痛感します。


抗議したものの、決定は覆りません。

思い通りにいかないことに悩みます。

その思いを大学の先生に相談します。


「風にあたる気持ちで行ってこい」


大学の先生の一言は、今まで様々な方法を考えて、自分の希望した分野に執着していた自分を、楽にしてくれました。

考え方が変わることで、物事の捉え方も変わってきます。

自分の分野で見える世界とは違う視点で、核融合を捉えることができます。

分野は別であっても、共通する部分に気づいたり広い視野で学んだりと、柔軟な発想につながっていきます。

上坂さんにとって、“思い通り”の分野ではなかったものの、欠かすことのできない経験となっていきました。


卒業の時期。

研究への情熱は、冷めることはありません。

就職先は“研究職”を希望するのですが、すでに枠はいっぱいでチャンスすらありませんでした。

そして、企業のエンジニアとして就職することに。


“思い通り”に進まない。


数ヶ月間は、晴れない気持ちが続きます。

しかし、

「留学の時もそうだった」

と昔の自分の経験がどんよりした心を晴らしてくれます。


“一流のエンジニアになりたい”


新たな目標を胸に、エンジニアとして一生懸命に力を注いでいきます。

持ち前の努力と共に。

6年後。

転機が訪れます。

大学から、助教授のお誘いがありました。

もともと希望していた研究職。

思いがけないお話です!

もちろんチャンスをつかみとります。

30年間、上坂さんは東京大学で勤務されました。

新たに装置をつくったり、原子力専攻を創設したり…

様々な功績を残していきます。

IAEA(国際原子力機関)の委員にも任命され国際的な人材育成にも務めました。


「ずっと定年まで研究するんだ!」

そんな思いを持ちながらも、上坂さんの築き上げてきた数々の功績は、

「原子力委員会委員長」

の任命につながっていきました。

研究職ではなくても政策を出していくという形で、世の中に貢献していきたい。

一切ブレることがありません。

私たちの生活を守る方が、上坂さんのような方であることに自然と安心感が湧いてきます。


◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか

「仕事は原子力」


「これ言うと笑われてしまうかもしれないんだけど…」

その言葉で始まった回答。

私は構えながら身を乗り出して聞く姿勢をつくります。


小5は水泳の平泳ぎの区の大会で予選で負けた。

中高では軟式テニス。

特に高校1年生の時には、めっちゃ頑張ったんです。

当時は練習中に水を飲んじゃいけないって指導だったから、辛かった〜。

ダブルスの前衛だったんです。

でも市の大会の準々決勝までいって、やめました。

大学では軟式野球を。

2年の時は特に頑張ったね。

10日間の夏合宿でも全集中。

2番セカンドをやってたんです。

秋リーグ戦初戦でスタメンで活躍。

でも、夜に喘息が出てしまってね。

それで眠れなくなって、練習もバツで、スタメン外れて。

でも、大学の先生になって、学生の軟式野球部の部長として野球は復活したんです。

リーグ戦でチームは6回優勝。

スキーも好きでね。

上手い人にも教えてもらって、スキー2級を受けようと思ったけど、検定の日程が合わなくて。

留学生にもスキーを教えてあげてる。

半日教えて、残りは自由にするの。

音楽も好きで、合唱や鉄琴に関しては大会に出たこともあるよ。

トランペットもやってた。

若い頃は声も高く、オフコースを歌ってた。

結婚式で「愛の唄」を親友とデュオで歌った。

妻の妹にリクエストされ、彼女の結婚式で「私の願い」をソロで歌った。

今では歌えないけどね。


メモしてあったものを全て読み終わり、安堵の表情を見せる上坂さん。

スポーツも音楽も多才にやられている事実に“笑い”の場所が見当たりません。

「どんなお仕事をやってみたいですか?」

私が再度尋ねます。

上坂さんが答えます。


「他はやってみた。

 やれるところまでやって終わり。

 仕事は『原子力』。

 成功したのはこれだけ。」


◯落ち込んだ時、どう乗り切るか

「早め早めに休む」


「疲れたので、休みます」

と言えることは大切。

しかし、小6から勉強をひたすら続けた上坂さん。

中学3年までの内容は中学2年までに終わらせ、中学3年からは高校1年の勉強を始めていくものと、お父様から言われていました。

自らの経験から、

「休まずに継続あるのみ」

とおっしゃるのではないかと思っていました。


上坂さんが中学生の頃、喘息で学校を1週間休まざるを得なくなりました。

2階の部屋で休んでいると、下からお父様とお母様の声が聞こえてきます。

耳を澄ますと、お母様が自分をかばい、無理をさせすぎているとお父様に強く訴えていました。

寝込んでしまっていることから、お父様も反論できずにいました。

体調が回復し学校に復帰します。

しかし、次の週にはテストがありました。

テスト前の大切な期間を休んでいるので、結果は期待しませんでした。

テストの結果、順位は…

学年で1位!

かばっていたお母様の声は小さくなってしまったそうです。

でもこの経験が「休む」ことの重要性を身をもって教えられた出来事でもありました。


◯未来ある子どもたちへのエール

「好きなこと、やりたいことをやってほしい。

 夢やぶれた時、うまくいかなかった時、それは、その道にいくのがベストじゃないのかもしれない。

 別の道にいってもいい。

 戻ってもいい。

 疲れがとれてきたら両方やってもいい。

 視野も広がる。」


どこにどんなチャンスがあるかわかりません。

自分が苦手だと思っていたことがもしかしたら今現在の経験からだけで、今後得意になっていく可能性だってあるかもしれません。

不運と受け取るのか、幸運と受け取るのかで、物事の見え方は全く異なっていきます。

気づけていない自分に出会う勇気を。


◯インタビューをして

課題が出せなければ

「社会に出たら困る」

と言い、算数や数学ができなければ

「買い物をするときに困る」

と不安を煽られます。

成績が悪ければ

「これでは志望校のレベルを下げるしかありません」

と先の見えない焦りの中で、ただ苦しみながら勉強を行っていきます。

もし、学校が不安ではなく、希望を中心に語れたのなら。

焦りの中で勉強するではなく、期待を胸に勉強に取り組める場所であったのなら。

日本の授業は、学ぶことに喜びを感じる魅力ある学校に変わるのではないでしょうか。


先生たちは子どもたちに尋ねます。

「どうした?」

子どもたちはよく

「大丈夫です」

と答えます。

その言葉だけを汲み取って、

「子どもが『大丈夫』と言っているから大丈夫ですね」

本人の意思を尊重する風潮が強くなっているものの、「意思」はいつも意識化され、子どもはいつもそれを「言葉」にできると思い込んでいる学校現場。

子どもたちの可能性に、子どもたち自身は気づけているのでしょうか。

子どもたちの未来に、大人たちは本当に期待を抱いているのでしょうか。


東日本大震災による福島での事故。

今、上坂さんの技術が後輩たちへと引き継がれ、廃炉に向け取り組まれています。

石油危機に直面し、エネルギーに興味を抱いた青年が、日本を守る技術を開発していく未来。

そんな未来を誰が想像したでしょうか。

思い通りにはいかない。

そんな世の中。

思い通りにはならない。

そんな人間関係。

だからこそ、可能性を秘めている。

「ダメだ」と思ったその瞬間にこそ、道は拓かれていくのです。

心の筋トレ部

教員であり公認心理師である片野とさとぶーが「心の筋トレ」を実務で実践させていただいています✨皆さんの自己免疫力💪を上げ‼️予病に貢献できるよう、情報発信していきます✨

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