100人のプロの80人目のプロ‼️
埼玉のお家に11時の約束。
愛知から車で伺うため、朝といえばいいのか、夜中といえばいいのかというような時間帯に出発します。
新聞配達の方よりも早い出発に、少しだけ優越感を胸に抱きます。
その甲斐あって無事に到着。
駐車場に着くと、すぐにお弟子さんたちが出迎えてくださいます。
私の前にアメリカからお客さんがいらっしゃっていて、ひとつひとつの作品を真剣に見入っていました。
奥に目をやると、棚の上に高くそびえ立つ樹木が。
まるで龍が木々の間をくぐり抜けるかのような迫力。
呼吸を忘れてしまうほどのたたずまいに、息をのみます。
どれほどの価値なのかは、素人の私でもわかります。
私がみているのは“盆栽”。
木村さんの代表作、“登龍の舞”です。
その盆栽に惚れ込んだ当時の内閣総理大臣竹下登さんが名付けた名前です。
木村さんはアメリカ人と挨拶を交わした後、優しい表情でこちらに来て事務所まで案内をしてくださいました。
キレイに整えられた庭木たちを眺めながら、事務所の椅子に腰を下ろします。
「時間も時間ですから、何か食べてかれますか?」
遠慮すべきなのか、またとないチャンスを受け取るのか…
迷ってみるものの、口では
「お願いします」
と言っていました。
頂いたのは唐揚げ。
しょうゆ味の唐揚げに、ご飯が進みます。
口いっぱいに頬張りながらも、聞きたいことが次から次へと湧いてきます。
とっても、とっても美味しい昼食。
今回のプロは、盆栽界で知らない人はいないと言われるほどの伝説的な方、「盆栽のプロ」木村正彦さんです。
◯子どもの頃の夢
「将来のことは考えていない」
カラオケのマイクを発明するなど発明家だったお父様。
戦時中だった当時、時代の先をいく頭脳の力は、国家からも求められます。
皆のためにと要請されたものを一生懸命に発明し、設計します。
1945年8月15日。
日本の戦争が終わります。
戦争によって日本は、あまりにも多くのものを失いました。
人の心も世の中もガラッと変えてしまいました。
木村さんのお父様がどれだけ国民のことを思い、守ろうとしていても、そこに思いを寄せない心無い国民たちは、敗戦をきっかけにお父様のことを戦犯扱い。
時間をかけ、知恵を絞って築き上げられてきた発明品や設計図は、アメリカ軍によって跡形もなくスクラップされ、燃やされてしまいました。
お父様の会社「株式会社木村航空機」も同じように…。
国からの補償は何もありません。
日本中が貧しかった時代。
常識は非常識となり、非常識が常識と変わっていきます。
終戦から6年。
まだまだこれからという時に、お父様の訃報を警察が知らせにきます。
長男である木村さんはまだ小学5年生。
妹は3人。
1200坪あった広い家の敷地は、4人の子どもたちの生活のためにと、お母様が少しずつ手放していきます。
あったものが失われ、奪われていきます。
お母様のお心がどんなにか張りつめたものだったか。
経験したことのない時代に、先の見えない未来に、将来のことを考える余地などありません。
スイッチひとつで部屋の温度を変えられる世界に住む私たちが、どこまで当時を想像することができるであろうか…。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「昔とった杵柄(きねづか)じゃないけど…」
自分にできることを必死に。
そうでないと生きていけません。
大変かどうかなんて言ってられない…。
小学5年生で働ける仕事は新聞配達員。
たくさんの稼ぎにならなくても、少しでも家族のためにと新聞の配達をします。
朝刊を配り終えた頃の学校。
太陽も目覚めない薄暗さから始まる一日。
木村さんにとって、学校は体を休める場でした。
そんな生活を、木村さん以外にも何人かがしていました。
中学卒業後、お母様の紹介で近所の盆栽士のもとに弟子入りします。
弟子入りなので給料はありません。
その代わり、住み込みだから食べるご飯には困りません。
色々な思いで、お母様が探してきた親心でした。
盆栽の師匠から言われます。
「一人前になるには10年だ。
そして、感謝のための“お礼奉公”という無料でお手伝いが1年。」
11年経ってようやく一人前として独立。
でも、その間の給料はないので独立資金なんてありません。
何ができるか!?知恵を絞ります。
その中で、東京の高級な街で、当時珍しかった胡蝶蘭などの高級な花の販売を思いつきます。
でも高級な街ではテナント料などの場所代が高くて手が出ません。
しかし、チャンスは予期せぬところから訪れます。
弟子入りしていた頃のお客さんが、木村さんの人柄を見込んで、東京の麻布十番にあるビルの1階を無料で貸してくださることに。
理想とする場所に、理想とするものの販売。
この木村さんの狙いは大当たり。
全ての商品が飛ぶように売れます。
その売り上げは、今の金額で、年間2〜3億円ほど。
このまま同じ商売を続けたいと思うのが世の常ですが、木村さんは1年で手放します。
場所を提供してくださっていたお客さんから、
「花屋ごと譲ってほしい」
と言われたそうです。
善意で貸していただいているもの。
いつかお返ししなければとも思っていたため、すぐにそのまま譲りました。
その代わり、稼いだ金額を資金にして、花屋の頃から構想していた事業に取り掛かります。
それは、園芸用土の機械化です。
盆栽の土でもよく使用される「赤玉土」。
保水性や保肥性に優れた土で、園芸用の土としてはなくてはならないものです。
今でこそ、ホームセンターに行けば一袋ずつになって販売していますが、木村さんが20代の頃までは自分たちで山に行き、乾かし、袋に詰めるという作業をしていました。
しかも赤玉土はとても硬い。
掘るだけでも大変な作業です。
それを天日干したりするとなると、負担はかなりなものにも関わらず、1日にできる量は多くありません。
盆栽をやっていた時から「機械化できたらいいな」と思っていました。
その理想を現実にするために動き出します。
セメント会社や、調味料の会社などを見学し、乾燥させる方法などを学びます。
自分なりに構図を描き、それを元に機械をつくってみます。
すると、つくり直しもなく一度で成功させてしまいました。
木村さんの機械は12kgで一袋の赤玉土を一日に700袋つくります。
何人も必要だった作業はたった3人で完了します。
これでお金に困ることなく一生安泰。
しかし、この事業もすぐに部下へと譲ります。
他に「やりたい!」と思えることがすでに閃いていたから。
木村さんの次なる挑戦は「観葉植物のリース」でした。
今でこそ、植物屋さんの広告やチラシに「レンタル」という言葉を見る機会が増えてきましたが…。
そのレンタルの事業を木村さんは50年以上も前からしていたのです。
この事業も大成功。
そして数年後に、譲ります。
木村さんには目標がありました。
“失った土地を取り戻す”
という目標。
同じ場所ではなくても、同じような広さの土地。
お母様とどんな思いでその土地に足を踏み入れたのか。
感慨深いものを感じます。
世の中のせいにせず、ただ己の努力で築き上げていきました。
土地を手に入れた後、再び盆栽の世界に入った木村さん。
「昔とった杵柄(きねづか)じゃないけど、盆栽やろうってなってね」
盆栽は50年以上経つ今も、続けています。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「盆栽以外は考えていない」
耐えず新しい盆栽に挑戦し続ける木村さん。
石付盆栽もその一つです。
急勾配の岩肌に植物が自生している景色。
それは奇跡が折り重なってできている自然の景観です。
鳥が木の実をついばみ、たまたま食べた種が糞として岩の間に挟まります。
雨が降っても急勾配なため、水は流れてしまいます。
でもわずかな水分で命を宿し、「生きよう」とする強い生命力が芽と根を張り出させます。
その奇跡を盆の上に表現するのが石付盆栽。
木村さんの石付盆栽はどこでどう止まっているのか、全く分かりません。
木村さんに整えられた木々たちは育ち、時の経過とともにさらに力強く変化していきます。
2022年に木村さんは功績を称えられ、人間国宝の内定の話が来ました。
しかし、断ります。
理由は
「まだまだ」
だからだそうです。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「落ち込んだ記憶はない」
新しいことをすれば必ず、批判する人が出てきます。
心ないことを言う人も、もちろんいます。
でも!
自分が「いい!」と思えるものなら、迷うことはありません。
周りの評価は次第に変化していき、後でついてくるもの。
だから、
「ひたすら、自分の道を進むだけ」
と言います。
少し前に木村さんは、肺がんを患いました。
「ステージ4」というレベルで、かなり重いもの。
さらに膀胱にも異常が見つかり、「死」が迫ってくるような感覚になっても不思議ではない状況。
しかし木村さんの頭にその一文字は、一度もよぎりませんでした。
手術して三日後には現場へ。
左肺は半分以上を摘出しています。
海外への講演に招かれた際も、肺の呼吸を補うための酸素ボンベは持たず、でかけました。
今年で手術から18年目。
タバコを吸いながら、
「たまには昔を振り返ることも大切ですね」
と笑顔で当時の診断書を見せてくれました。
他人の言葉を気にしている暇はありません。
落ち込んでいる暇もありません。
自分がどうありたいか!?
どう生きたいか!?
信念を抱く者に、迷いはありませんでした。
◯未来ある子どもたちへのエール
「偉くなるのは一部でいい。
一人一人個性があって、何かできなくても、何かはできる!
そこを何とか伸ばす!」
学校では、できないことにスポットを当てます。
義務教育では6年間の小学校と3年間の中学校。
最低でも約10年を学校で過ごします。
学校は子どもたちに、どんな経験をその10年で積ませてあげられるのでしょうか。
勉強が得意な個性を持っている子もいれば、草花を上手に育てられる個性を持っている子。
どちらの方が価値があるか!?
そんなことは誰にも分かりません。
ただそれぞれが、かけがえのない大切な個性であることは確かです。
「中卒でも人間国宝に選ばれることもあるんです」
木村さんが私たちの食べた食器をまとめながら言ってくださった言葉。
あなたの個性は、まだみぬ未来にどんな輝きを放つことになるか!?
予測できない才能や個性に胸が踊りませんか?
◯インタビューをして
「私が唯一、母にできたかな?と思う親孝行がありましてね」
唯一だなんて、そんなはずはないと思う一方で「唯一」という言葉が気になり、すぐに尋ねます。
寒い日。
私たちに昼食を持ってきてくださった娘さんが、まだ幼かった頃。
お母様と娘さんがこたつに入りながらテレビを見ていました。
そのテレビの全国放送で、
“木村正彦の世界”
という番組が放送されていたそうです。
テレビに映る息子。
テレビに映る父親。
二人は、真剣に番組を見ていました。
娘さんは、木村さんに番組の感想を伝えます。
「おばあちゃん、泣いていたよ」
木村さんは世界で講演をされています。
お話の結びでいつもおっしゃることがあるそうです。
「生まれ変わっても、また同じ人生を歩みたい」
その人生とは、あの新聞配達をしていた時も含めて。
羨むんじゃなくて。
妬むんじゃなくて。
嘆くんじゃなくて。
もう一度自分のこの人生を、「歩みたい」と思える人に、私もなりたい。
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