100人のプロの96人目のプロ‼️
歩いて5分ほどのところに、店主が一人できりもりする喫茶がある。
サイフォンで入れるコーヒーに舌を鳴らし、アトリエへと向かう。
東京都新宿区のビルの2階に、ほのかに白檀の香りが広がる“i`m here :”のアトリエがある。
1階には本屋さん。
「新宿」という都会の喧騒を想像する私に、意外性を魅せてくれる街の風景。
植物の元気な姿が私たちを出迎え、外観とはギャップのある温かな時間がそのアトリエでは流れた。
アイロンに電源を入れ、
「ここら辺が少し熱くなるんで気をつけてくださいね。」
と細やかな心配りをしてくれた島村さん。
パンツを頂く際、島村さんがアイロンをかけてくださった。
腰ほどの高さの台の上で整っていくパンツ。
真剣な眼差しに対して優しい口調。
多くのアパレル会社は私のような一般人とは会おうとはしない。
だが “i`m here :”は違う。
「出会い」や「縁」を大切にしてくれる。
一つ一つの偶然を“運命”と捉えてくれる。
島村幸大太さんは“i`m here :”のパタンナー。
島瀬さんのデザインを立体にするパタンナーのプロ。
留学先のパリで出会った二人。
島村さんと島瀬さんは同じ専門学校の出身。
出会いは偶然だったのか。
はたまた出会うべくして出会ったのか。
ファッションの聖地である「パリ」。
年齢は離れているものの、フランスまで学ぶために行動するバイタリティーが、互いを引き寄せあった。
島瀬さんからは週3日で食事に誘われるほどの仲に。
ある時、島瀬さんと普段と変わらない時間をパリのカフェで過ごしていた。
いつもと少し違う島瀬さん。
自身のブランドコンセプトについて話があった。
様々なことに抗おうとする世の中。
島村さん自身、変わらない美を求めながらも、変化していく価値に悩んでいた。
そんな中で聞くブランドコンセプト。
“変わっていくこと”自体をテーマにしていた。
否定していたことへの捉え方が変わり、鳥肌がたつ。
衝撃を受けた感情のまま、自分の中で整理するかのように深く頷いた。
留学して約一か月ほど経ったころから卒業制作で忙しくなるまでは、インターンを経験。
服づくりに触れる毎日。
教室で学ぶだけでなく、現場の大変さも体で知っていく。
卒業後もインターンを再開し、約2年間はパリに残った。
パリコレのランウェイで正式に発表していたレディースブランド。
任せてもらえることは学生の頃より徐々に増え、運も重なり1年後には責任者になっていた。
ほぼ全てのパターンを引かせてもらい、コレクション前の2か月間は毎日朝から深夜まで、週末もほぼ休まず、がむしゃらにパターンを引いていた。
学生の頃の仲間たちがそれぞれの道を選択していく。
自分と比較して悔しいと思うことはあっても、焦ることはなかった。
このままインターン先で就職することも一つかもしれない。
実際にフランスでの就労ビザの取得を会社から提案してもらえるくらいまでは実力を示せたが、就職はゴールではなかった。
自身のブランドを立ち上げることを目標にしていた。
ブランドを立ち上げるとなれば…
「生産管理」
「営業」
そういうことをもっと知らなければならない。
しかし、勉強のため、経験のためにと入社させてくれるような会社はない。
最初から独立させるために人を雇う企業もない。
そんな中、島村さんに選択肢を用意してくれたのはセレクトショップを経営されていたお父様。
30代から自身でお店の経営をされてきたお父様の顔で、独立を前提に生産管理から営業までを経験できる企業に受け入れてもらった。
どれほど忙しくてもお父様からの愛情不足を感じたことはない。
でも…それを窮屈に感じていた。
まだ精神が幼く、その愛の偉大さを心で理解ができていなかったのかもしれない。
できれば誰の力も借りずに、自力でやってみたかった。
できればお父様の力も借りたくはなかった。
それが本当の意味での自立だと感じていたからだ。
“デザイナー”ではなく“パタンナー”としての手応えを感じていた島村さん。
しかしお父様からは猛烈に反対されていた。
もともと洋服の専門学校に行くことも、反対だった。
アパレルがどれほど大変なものなのかを身に染みて感じていたお父様にとっては、当然のこと。
それでもその道を歩む息子に“デザイナー”としての期待があった。
“家族”というものを意識し始めたのは、小学校低学年のご両親の離婚がきっかけだ。
両親の離婚を境に一緒に住めなくなったお母様。
いつでも会える環境をお父様が作ってくれてはいたが、それでもお母様と会えた後の夜は特段寂しく、辛かった。
いつでも見ることができた日常が、突然、当たり前ではなくなってしまった。
明るかった少年は、次第に口数の少ない少年へ。
仕事が終わり、夕飯にお酒が進むお父様。
酔った勢いに身を任せることはしない。
けどお酒を入れることで、自分の心が落ち着いたのかもしれない。
子どもに何を教えるべきか。
どう伝えるべきか。
はたまた黙っているべきか…。
子を育てる親はその日々を繰り返す。
私は教師として親たちの思いを聞く機会が増えた。
私が母子家庭で育ったことが幾分か話しやすい相手になっているのかもしれない。
親たちは悩み、苦しむ。
裏切られる形で離婚させられた母親が、心を傷だらけにして踏ん張ろうとする。
手紙の1枚も書こうとしない母親を恋しく思う我が子に、手料理を振る舞う父親。
何を伝えるべきか、どう伝えるべきかを悩み、準備した言葉が子を前に崩れていく。
セリフではなく、思いが言葉となるからだ。
「自分の言葉は間違ってたんじゃないか」
勝手に決めた“親として”の姿を保とうとして、自分の心を締め付ける。
「何が正解なのでしょうか?」
保護者たちから発せられるこの言葉に、いつも私は答えが出せない。
島村さんが高校生になったある時のこと。
お父様は意を決して、用意していた言葉を島村さんに伝えた。
お父様が思い描いていた状況とは異なり、島村さんの反発。
まるでボタンのかけ違いのように、たった一つのズレだったのかもしれない。
反発に対するお父様の返しに、島村さんは全ての言葉を失ってしまった。
お父様がどんな思いで言ったかは分からない。
しかし島村さんにとって、お父様の言葉に深く傷ついた。
我慢すればいい。
嫌なこと、辛いこと、全部我慢すればいい。
辛く感じるのは自分が弱いから。
嫌に感じるのは、自分に忍耐がないから。
気づけばお父様の言葉をきっかけに、自分を抑え込むようになっていた。
そんな中での島瀬さんの言葉。
その言葉が抑え込んでいた心を徐々に解き放つ。
「一緒にブランドを立ち上げないか?」
東京の原宿の街中で歩きながら告げられた島瀬さんからの言葉。
ブランドを立ち上げるにあたって、島村さんのパタンナーとしての力が求められていた。
生地のアシスタントとして入社したばかりの島瀬さん。
もうすでに退社して動き出していた。
お父様のコネで入社していた島村さん。
“2年間だけ雇い入れる”
という無理難題を受け入れてくださった当時の会社の社長と社員の方々、そして繋いでくれたお父様への義理を通すためにも、その約束だけは反故にはできなかった。
しかし、島村さんを前に夢を語る島瀬さん。
一枚のシャツをつくる話から、シャツに合うパンツや上着…
結果的に13枚も構想していた。
朝9時から夜中0時までの仕事。
仕事は続けながらも、帰宅して島瀬さんとの服づくり。
寝る時間はなかった。
体力的には辛かった。
でも心は違った。
楽しかった。
常に心が踊っていた。
もちろん“パタンナー”としてやっていくことをお父様は反対した。
どれほど想いを伝えても決して折れないお父様の心に、挫けかけたりもした。
島瀬さんがお父様に言い続けてくれた、
「島村幸大太と仕事がしたい。
それだけです。」
という言葉に救われた。
今までことごとく自分の反抗を押しつぶしてきたお父様と、とことん言い合った。
「絶縁だ!」
と言われもした。
それでもブレずに自分のやりたいこと、進みたい道を言い続けられた。
“これが今の私”
だと伝え続けられた。
島村さんが子どもたちへのエールで
「周りの大切な人を見落とさないように。
導いてくれる人はいない。」
という言葉をくださった。
それは自身の人生と重ねた言葉なのかもしれない。
嫌なこと。
辛いこと。
それらはいつだって克服することができる。
ただ…自分にその勇気があるか。
変えるきっかけをくれる人との出会いも必ずある。
けれど…変わることができるのは自分次第だということ。
大丈夫。
自分を信じて。
可能性はあるかないかではなく、生み出してほしい。
心踊る瞬間を見落とさずに。
私が島村さんと初めてお会いしたのは京都のサロン。
洋服が一つのアートとして展示されていた。
私たちがイタンビューの依頼をした際、島村さんは過去を振り返って言った。
「辛い思いも多かったけど、その反面色々な経験をさせてもらえたことは親に感謝です」
どの言葉が、どの行動がどんな影響を与えるか分からない。
ただ、島村さんのお話を伺い感じた。
親の心は、確実に子へと伝わる。
ボタンのかけ違いに恐れることなく、タイミングを見計らうことなく。
窮屈に感じられても、拒絶しているように見えても。
今は伝わらなくても、いつか、きっと、必ず。
一生懸命に頑張る“あなた”以上の正解はないのだと思う。
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