100人のプロの45人目のプロ‼️
「牛乳飲む?」
職場のベテラン先生が私に声をかけました。
その学校で、私は給食費を納めてないのでその旨伝え断りました。
そのかわり世間話の一つとして、ベテラン先生の持っている牛乳のお話に。
すると…
「昔は〇〇牛乳や〇〇乳業があったんだけどね。
借金を返済したから、牛乳はやめたんだよ」
疑問を残すベテラン先生の返答でしたが、詳細を知らない私にとっては
「へ〜。そうなんですか…」
と曖昧な相槌しかできませんでした。
その後、「牛乳づくりのプロ」Tさんの会社についてもベテラン先生は話し始めました。
しかし、誤った情報ばかりだったのでしっかりと
「先生。それは違いますよ」
と訂正が出来ました。
テレビで手に入れた情報。
ネットで知った情報。
噂話で知ったようになる情報。
様々な情報で溢れる世の中ですが…
実際にやられているプロの方々にお話を直接、伺えることの有り難さを痛感しました。
最初に話をした「疑問の残る」話も「誤った情報」だったことを知ります。
それは「学乳(学校給食用牛乳)のプロ」Kさんとのお話で気づかせてもらいます。
Kさんは愛知県の学校給食、市場に出回る全ての牛乳を調整して下さる方。
Kさんの存在は酪農家の方と子どもたちを繋ぎます。
「乳牛のプロ」Sさんを紹介して下さったのもKさんでした。
常に親切に、親身に接して下さるKさんに、お話を伺いました。
◯子どもの頃の夢
「探していた」
ご両親は仕事のため都市部へ。
その際にKさんは田舎情緒あるお祖父様とお婆様のところに残ることにしました。
少年時代をその土地、その環境で過ごせたことは大きな宝だったと教えて下さいました。
お祖父様もお婆様も
「こうしなさい!」
「ああしなさい!」
と言うのはなく、好きなようにさせてもらっていたそうです。
こんなエピソードがあります。
昔から動物好きなKさんは近所の犬を飼われている方のお宅へ。
そこへはよく行き、勝手に犬小屋を開けて山へ散歩に出かけていたそうです。
そのことは飼い主さんも気づいていたそうですが、特に何か注意を受けることもなく、やらせてもらっていました。
のどかな環境です。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「忙しかったから」
高校生になろうとしていた頃…
のどかな環境下から卒業します。
お父様、お母様がいる都市へ。
のどかな環境が嫌だったとかそう言うのではありません。
もっと将来のこと、世の中のことを知りたいと思ったからでした。
都市では見たことのないものや、経験したことのないものに溢れていました。
友人との会話は、イントネーションだけでなく、内容も違っていました。
高校卒業の頃には
「獣医を目指そう」
と言う気持ちに。
大変だった受験や、現実離れしていた大学での授業を乗り越え、無事に獣医になります。
就職先は「保健所」。
「保健所」と言うと、ちょっと前まで
「コロナに感染!?」
という時の窓口として案内されていましたので、とても身近に感じる職種。
しかし保健所は感染症の対応だけではなく、様々な「安全」に関わるお仕事をされている所。
Kさんは同じ一日を同じ過ごすなら、忙しい方を選択する方。
そこでの活躍は、従業員のお弁当などの管理、感染症の予防、建築に際して食品衛生上の監督など、現場で働いていらっしゃる方から、将来そこを利用する人の安全までも護っていくお仕事でした。
各飲食店のスペースを広く取ることができないこともあって、中部国際空港では通常で求められている衛生法上の基準よりも、さらに厳しい独自の基準を設けています。
その分の負担は大きいはず。
しかし、Kさんの案に迷わずG oサインが出ていきます。
2005年から開港されている中部国際空港ですが、未だに食中毒を出さずに歩み続けられるのは、もちろん従業員の方々の努力と、建築時で活躍された方々の力です。
そうした数々のご経験と実績を残されたKさん。
再就職の時期になります。
関係のあった方に仕事を紹介されます。
それが今の職場でした。
牛乳を子どもたちに、大人たちに繋いでいくお仕事。
今までは教育委員会出身の人が多かったそうです。
食品衛生という面ではなかなか難しさを感じていた所のKさんの抜擢。
メーカーの思いや酪農の方の心や、金銭を担当する組織との間に挟まれる立場。
大変であることは分かっていたものの、大学の先輩からの紹介だけに断る選択肢はありません。
5年で辞めよう。
その思いで引き受けます。
赴任した頃、大きな出来事が起きました。
「牛乳も国際競争力を」
と言うことで、再編がありました。
数ある製乳業者を一つにすることで、海外にも勝負ができるように。
その一環として製乳業者がまとまっていきました。
だから、ベテラン先生が言っていたように「借金が〜」と言う話ではなかったのです。
再編の際の書類は凄まじいものでした。
気づけば、決めていた5年が経とうとしています。
後任に譲っていく時。
しっかりと引き継ぎを行なっていきます。
しかし…
その後任の方から1年経つかどうかの時に連絡が入ります。
内容は…
「多忙すぎるため辞めたい」
とのことでした。
その申し入れに責任を感じ、Kさんは再び引き受けます。
今もなお午前中はほぼ電話。
学校給食の牛乳の過不足を調整するための電話です。
学級閉鎖や配送ミスなどが重なり数十本単位での仲介を何件かやりくりしていきます。
その甲斐あって、急な学級閉鎖があっても名古屋市では牛乳のフードロスは「ゼロ」に。
私たちが気づかないところで、誰かが活躍してくれています。
今ある日常を偶然としないために。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「今の仕事、のってやっている」
品不足や原材料高騰など、一筋縄ではいかない出来事は数々あります。
学校給食として、牛乳を提供できない可能性も隣り合わせの毎日です。
以前も書かさせて頂きましたが、給食から牛乳を除くと、求められている栄養素を他の食品で補うことができません。
しかも給食費を300円以内に収めなくてはいけません。
一方で、酪農家の方も値段を据え置かれてしまっては、経営を維持することはできません。
その間に立ち、様々な交渉をするKさん。
食べる前のたった6文字と、食べた後のたった9文字の言葉に、深い意味を持たせるのは大人である私たちの使命なのかもしれません。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「大学に1,2年遅れたとしても、死ぬ時その1,2年は誰も何も言わない。今は努力する時」
大学受験に二度失敗した時、塾の先生が贈ってくれた言葉でした。
その後の人生でも、この言葉は一つの支えになります。
大変な時に誰かの言葉や行動がいつもそばにあります。
それを思い出せるか!?
それを活用できるか!?
乗り越えるための技術は「それ」なのかもしれません。
困っている時は仲間や先輩が、気づけばサポートしてくれていたり…
災害に遭えば必ず自分のことを諦めずに助けに来てくれたり…
そんな出来事が保健所に勤め始めた頃にありました。
愛知県の三河地方で記録的な豪雨は災害となっていき、町を襲いました。
Kさんもすぐに現場へと駆けつけ、職務として必要なことを行っていきます。
しかし、自分よりも先に来ていた方々が既に活動していました。
自衛隊の方々です。
何日も何日もスコップで泥をかき出します。
服も靴も汚れて…
でも集中し続け、休憩は立ったまま。
どんな訓練をすればその忍耐力がつくのか…
その姿は希望の光となり、ご自分の力となったことは確かなことでした。
◯発達個性を持った子どもたちへのエール
「優れたところがある。
特殊な能力が高い。
どうやったらその能力を引き出せるか!?
それは環境を整え、ちょっとした工夫」
奥様は幼稚園の先生をされていたとか。
現場での園児の話も聞いていたのですが、同時に能力を発揮していく姿も知ります。
Kさん自身も大学で講義をされています。
子どもたちの成長していく姿を間近で見て感じて出てきたエール。
どんな能力があるのか!?
それを探っていく作業は、なんだかワクワクしませんか。
◯インタビューをして
自分一人で生活しているようで。
そうでもなかったりします。
誰の助けにもなっていないようで。
そんなことはなかったりします。
生活をしていく上で、必ず誰かが関わってくれています。
その誰かに気づいていないだけで、確かに誰かの努力があります。
それぞれの立場の人たちが、それぞれの活躍をすることで何事もなかったかのように世の中は回っていきます。
もしかしたら、一生気づけないかもしれません。
しかし…
誰かが見ています。
誰かは気づいています。
自分自身の情熱を。
自分自身の努力を。
言葉では言い表せてなかったり、伝えそびれているかもしれませんが。
独りではありません。
大きな歯車であればあるほど、動き出すには時間はかかります。
しかし時が熟した時、自分の役目を全うできるように。
誰かのエネルギーになるように。
今、やれることを全力でやり続ける。
そんなKさんのお仕事は、気づかない所で私たちを護ってくれていました。
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