100人のプロの59人目のプロ‼️
「5分はもつ。たかが5分だけどね。」
千さんは正座でインタビューを続ける頑固な私たちに、正座のコツを教えて下さいました。
ズボンの膝の上の箇所をギュッと、つまみ上げて座ってみてください。
座った後にパッと離すと、今まで窮屈だったはずのズボンにゆとりが生まれます。
痺れた足に「5分」は貴重な時間。
千さんは最初から
「どうぞ足を楽にして下さい」
と気遣って下さいました。
でも、やっぱり…正座でお話を伺いたかった私たち。
インタビューの後、
「お立ちになるのにお時間が必要でしょうから、先に失礼しますね。
どうぞごゆっくり」
とニコッと優しい笑顔を浮かべながら、サッと立ち、キレイな所作で部屋を後にされます。
私たちは、しばらく部屋で身動きが取れませんでした。
足の感覚を取り戻すため…ただそれだけではなく、頂いた言葉の深みに、浸って過ごしたかったから。
「表玄関と裏玄関を同時に見てはるんでしょうね」
この言葉に、一度、立ち止まりたくなって。
「なるほど〜」
と上辺の納得にしたくなかったから。
何度も何度も私の中で繰り返した言葉です。
千さんは「茶道のプロ」。
裏千家16代御家元です。
◯子どもの頃の夢
「抱くことができなかった」
子どもの頃から16代目として育てられ、そのように生活することを求められてきました。
しかし、「夢」を抱けないと感じたのは、生まれた家が「千家」だったからではありません。
小学生の頃、学校で作文の授業が行われました。
テーマは「夢」。
担任の先生は皆に指示をしながら、ある言葉を千さんに向けます。
「千はもう決まってるからな」
皆が憧れをはなし、笑顔が溢れ、想像を膨らませる学級の中に、その言葉は鋭い刃のような傷を千さんに負わせます。
どんな意味を込めてその先生が放ったかは分かりません。
その言葉を同じように聞いた学級の人たちの中で、どれだけの人が千さんの心を知ったのかは分かりません。
ただただ千さんにとって、大きな痛みを与えた言葉だった。
◯今の仕事に就いたきっかけ
「一日一日の過ごし方が、日々が、支えてくれている」
担任の先生の言葉はなぜ発せられたのでしょうか。
夢を、希望を、伝えていくべき学校が、それらを奪っていきます。
時代のせいなのか!?
たまたまそういう人たちが周りにいただけなのか!?
…
授業参観でお母様は、仕事の関係上、着物姿です。
周りの親たちは
「おしゃれしちゃって」
と皮肉のように言っているのが伝わってきます。
就職することが困難な時代。
小学生の頃から千さんは
「お前はいいよな」
と言わんばかりの態度を取られていきます。
周りのそんな態度にお母様は、
「分かってくれる人は必ずいるからね」
辛い思いをグッと堪えながら、よくそうお話をして下さっていました。
世間は「妬み」や「嫉み」を直接千さんにぶつけてきます。
時には、暴力となって千さんを傷つけます。
ある時、取っ組み合いの喧嘩が起きます。
誰かが止めるわけでもなく、力の強い者に加勢していく状態で、千さんは一人で叩かれ、蹴られていきます。
一つの学級で野次馬のように皆が円を描き囲みます。
その場にいた友人たちは、目が合っても千さんを助けようとはしません。
自分がターゲットとならないために、その円から遠ざかっていきます。
そんな中、群衆をかき分け横たわる千さんを助けた人物がいます。
体格のいいその姿は、弟さんでした。
いくら体格がよくたって小学生の頃に上級生へ立ち向かっていくのは、とても勇気のいること。
しかし千さんには、その弟の勇気を讃えることができませんでした。
心にゆとりがありませんでした。
弟のピンチを救ってやるはずの兄が…
悔しい気持ちでいっぱいです。
情けなさが千さんを包みます。
小学4、5年生の頃に千さんは心を閉ざすようになっていきました。
色々なことにやる気を失っていきます。
それを見かねてなのか!?
たまたまなのか!?
小学5年の担任の先生は、千さんに仕事を任せます。
サポートを必要とする同級生のサポート役。
他人に傷つけられてきた千さんが、他人のために尽くす時間を過ごしていきます。
してあげることは、自分がすること以上にややこしい。
先生の目的を考える時間はありませんでした。
同時に、心を閉ざすゆとりもなくなってきました。
誰かのためにしていた行為は、心を閉ざしかけていた自分を救ってくれます。
中学へ進学。
中学2年生になっても、依然として嫌がらせを受け続けます。
小学校から中学校に変わっても、学級の顔ぶれに変化があっても、嫌がらせは変わりません。
ぶつかられたり、殴られたり。
嫌なことがあっても「グッ」と耐え、我慢し、自分を殺します。
言いたいことも、反発することも抑えます。
これ以上、嫌な思いをしないために。
今以上、傷つかないために。
もう少し耐えれば。
いつか誰かが…。
…
黒板の掃除をしていた時、いつものように大きな体の同級生がぶつかって、自分をからかってきます。
それでもグッと耐えて。
何事もなかったかのように過ごす。
いつものことです。
しかし、なぜかその時は…
「悔しい」
という感情が湧き起こってきます。
我慢してきた自分の初めての感情。
自然と自分の手はグッと硬く結ばれ、手は拳に変わっていきます。
拳を高く振り上げると同時に、同級生の大きな体は宙に浮きます。
その子のメガネは更に遠くへ飛んでいき、気づけばその体は地面に横たわっています。
耐えて、耐えて、耐えてきた分の力は、大きな一撃に。
感触の残るその拳から、
「変わるべきは、『自分』だった」
と教えられます。
嫌なことを「イヤ」と表現できた自分に自信を抱きます。
嫌なことを「イヤ」だと言える千さんに、皆の態度は変わっていきます。
心の「痛み」を知り、「他人のために尽くす」ことを実践し、「どうありたいか」を学んだ小中学生の頃。
その頃の経験の一つ一つが、今の自分の基盤をつくっているそうです。
困っている生徒がいれば助ける。
これは教員として当たり前のこと。
千さんに尋ねます。
「その当時の担任の先生たちは、相談に乗ってくれなかったのですか?」
時代が時代なだけに、自分で解決していくことを求められていたそうです。
「今とは違うな〜」
そんな思いで聞いていました。
先日、私の元に一人の生徒が相談に来ます。
学級で同級生から嫌がらせを受けているそうです。
すぐに知らせようと担任の先生を探します。
しかし担任の先生が見当たらず、たまたま会えた学年の先生にその旨を伝えます。
すると、
「あ〜。よくありますもんね」
彼が真剣に訴える内容にも関心を抱かず、その事実を知っていながら対処らしい対処をしていないことが分かりました。
教育の現場は昔と何一つ変わっていなかった。
いや…むしろ保護者からの連絡がある時にだけ動く現場は、昔に比べもっと冷淡なのかもしれません。
週一回しか会えない彼に、私は何をしてあげられるのだろう…
ふと、千さんの話が浮かびます。
「茶道って分かる?その茶道のね…」
私は千さんの学生の頃のエピソードを話し始めます。
口をグッと閉じ、目線は一度も外れることなく、一心に私を見て聞いています。
最後に
「イヤならイヤとはっきり言う」
千さん自身の気づきを伝えます。
自信がないような頷き方で聞いていた彼は、次第に一言一言を自分に染み込ませるような頷きに変わっていきました。
千さんのエールが、彼を支えていました。
教師とは何か!?
教育とは何か!?
私たちは今一度、振り返らなければなりません。
◯今、自由に選べるとしたら何の仕事をしてみたいか
「町方(まちかた)のお茶の先生」
「いつでもおいで」と言ってお弟子さんを待つ生活をしてみたいと、教えて下さいました。
お弟子さんとのお稽古は、学ぶことが沢山あるそうです。
自分の伝え方。
ものの捉え方。
お弟子さんの姿を見て、自分自身も振り返ります。
そこに「御家元」という“おごり”は決してありません。
立場や身分は、時として自分の想像以上に態度として表現されてしまいます。
ましてや、周りの方たちも「すごい」「すごい」と言ってくればなおさら。
しかし、千さんは“おごり”ません。
「御家元が講演会に来てくれたら、それだけで皆は喜びます」
そんな言葉を私が言うと、
「それ、高下駄履いてますやん」
ニコッと返され、「だから一流なのだ」と実感します。
◯落ち込んだ時、どう乗り切るか
「『気いつけよう』と謝ることはすぐに謝る」
否定からは何も生まれないからこそ
「ごめん」
と口に出します。
反省はしても言い訳を加えません。
言い訳した自分がどんどん苦しくなってしまいます。
とりつくろっても、否定していても、その時には戻りません。
だからこそ、反省をして、少しずつ成長していきます。
何かあれば
「そんなことや」
と次へのステップへ。
◯発達個性を持った子どもたちへのエール
「世の中広いですよ。
大きな画用紙がひらげてあって、
集中的に描かれているところもあるけど、
まだ白いところに自分が好きに描いたらどう?」
千さんは大学で「心理学」を専攻していらっしゃいました。卒業時の専門は「触覚」。
千さんは子どもの頃から視力が低く、「このままでは」ということでお医者さんの指示で、コンタクトを装着していたそうです。
当時は今ほど柔らかくなく、小さくなく。
だから目に入れれば異物としてとても痛い思いをしていたそうです。
視力が低いことは、そんなこともあってコンプレックスに感じていました。
「皆と同じように、同じものを見ることができない」
その事実を逆手にとって、自分のテーマにしてみてはどうだろうか。
自分の弱さは、どう隠しても弱さ。
それを誤魔化すことはできません。
だからこそ、そのことについて学びます。
見ることの弱さは、触覚への鋭さにつながります。
自分のコンプレックスを見過ぎていては、自分の可能性に気づきづらい。
コンプレックスが、苦手が、弱みが見つかれば、別のところに強みが必ずあります。
可能性はまだまだ沢山。
◯インタビューをして
簡単に知識を手に入れられて、簡単に経験が積めて…
簡単に知らない人と知り合えて、簡単に相手を知ることができて。
簡単だったからこそ、得た知識の重要性に気づきづらく…
簡単に積めた経験だったからこそ、自分を支える自信になりづらい。
簡単な関係に慣れてしまったことで、ためを思って言ってくれる人の言葉の大切さに気づきづらい。
キレイな世界のように映る他人の生活に、人生を歩み進めることのできる有り難さに気づきづらい。
便利が怠惰に変わり、怠惰は傲慢へと変化させる人々の世にあって、千さんの言葉は私自身を振り返らせます。
「表玄関、裏玄関。並べてるようなもの」
千さんは私たちの言う「個性」という言葉は、言われた本人たちにどんな気持ちを抱かせるのかと、私に問います。
千さんの純粋な疑問に子どもたちの顔を思い浮かべます。
私が見ているはずの世界は、もっと自由でもっと可能性に満ちていて…
そんな気持ちでいました。
しかし、「発達障害」という言葉にとらわれていたのは、私なのかもしれません。
「障害ではない」
といい、別の言い方で同じように括っていたのかもしれません。
言い方が変化したらそれでいいのか!?
全ての人に当たり前にある「個性」を、わざわざ本人に強調することは、「異質」であると言っているようなものなのかもしれません。
傲慢になっていたのだと、気付かされます。
ただ…私が伝えていきたいのは、
「未来ある子どもたちへのプロからのエール」
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